長柄豊崎宮(ながらとよさきのみや) 名柄村の南北・本庄村等旧蹟なり。人皇三十七代の帝孝徳天皇しばらく皇居を造りたまふ所なり。
この君は名帝にてましますにより、百官の位階を改め、冠服を定め、君臣の礼法を乱し、あるいは畿内の郡里・田園の法数、農事の稼穡(かしょく)、飲食の分際、諸国の関宿、長柄橋・宇治治橋・勢田橋等を勅して造らしめ、絹布定規の寸尺、元旦の嘲賀、年号は大化に始まり、長門国より瑞鳥白雉を奉りしかば、元を白雉(はくち)と改めたまふ。また鎌足大臣に紫冠(しかん)を授けられしもこの御字なり。なほ委しきは『日本紀』に見えたり。
 『万葉』短歌(上略) ありし間にうみをなす長柄の宮に真木柱(下略)       笠金村
 『夫木』         いにしへの長柄宮は跡もなし橋柱だに朽ち果つる世に  公 朝


01
難波宮跡公園(なにわのみや) 大阪市中央区法円坂1
昭和29年(1954)より山根徳太郎を中心に発掘。前後2つの難波宮跡が見つかる。
645年の大化改新後の孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)と、 神亀3年(726)聖武天皇の後期難波宮と見られる。

02
大極殿(だいごくでん)@   前期と後期で位置が異なるも、 中心線はぶれていない。

03
八角殿(はっかくでん)A  前期難波宮のみに認められる八角形の建物。東西に2棟が上町台地に高く聳え立っていただろう。西のみ骨格を再現。

04
五間門B   後期難波宮のもので、 西に2門残っている。

05
朝堂院(ちょうどういん)E
朝堂が規則正しく並んでいた。これだけ広い敷地が関係者の努力で史跡公園として残った。

06
南門C  南門は史跡公園の南側、民有地にあり、 マンションが建ちました。そのマンションの前に解説板があります。
「前期難波宮朝堂院の南門があった所で、 堀立柱の跡は現在も地中に保存されている。」

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