長柄橘跡(ながらのはしあと) この橋の旧跡、古来よりさだかならず。いづれの世に架け初めて、いづれの世に朽壊れけん。これまた分明ならず。橋杭と称する朽木所々にあり。今田畑より掘り出だす事もあり。その所一挙ならず。予これを按ずるに、上古は大物浦より束北江口里、南は福島・浦江・曽禰崎より北は神崎川まで一面の大江なり。すなはち大江の名もこれより出づる。またこれを難波江・難波入江・難波江の浦・三津江・御津浦とも和歌に詠まれたり。その江の中に嶼々多くあり。今、村里に古名の遺るもの多し。いはゆる南中島、北中島の中に、橋本・柴島・浜・川口・小島等みな水辺の郷名多し。長柄橋は孝徳帝豊崎宮の御時よりかの島々に掛けわたして、皇居への通路なり。今諺に云ふ、長柄橋は長さ一里ありしと云ひ伝へたり。一橋の名にあらずして島より島へわたして、橋の数数多あれども、地名によりてみな長柄橋といひならはしけり。委しきは名柄豊崎橋なるべし。古来よりも今の北長柄より豊島郡垂水圧に至るまでを長柄の橋跡といふ。また一説には長柄川、今の船渡口の辺、橋の古杭遺れりとて、近年掘り出だし江府に上る。長柄豊崎宮、孝徳帝崩じたまふ後、大和の飛鳥宮に遷都したまひ、橋の修理も怠り、風戒の時、江海渺茫(こうかいびょうぼう)して落損しける事多し。その後、嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月、ふたたび長柄橋を識らしむ。人柱はこのー時なり。
後世に逮んで神崎川・長柄川・天満川の水路溶々として、江海みな変じて田園と成る。今のごとく村里・食田多し。桑田変じて海となるよりは、大いなる益ならんかし。人柱の事は豊島郡垂水、雉子畷の下に見えたり。
  『古今』   難波なるながらの橋もつくるなり今は我が身を何にたとへん     い せ
  『拾遺』   あしまよりみゆるながらの橋はしら昔のl跡のしろべなりけり     藤原清忠
  『新肯』   春のHのながらの浜に舟とめていづれか橋ととへど答へぬ      恵学法師
  『統校規』  月もなはながらに朽ちし橋柱ありとやここに澄み渡るらん      太上天皇
  『続後拾』  さてもげにながらの橋のながらへて世をわたる身ぞ苦しかりける  亀山御製
  『玉葉』   いにしへにあらずながらの橋柱ふりにし跡を忍ばすもなし       順徳院御製
  同      さもあらはあれ名のみ長柄の橋柱朽ちずば今の人もしのはじ    定 家
  『続後拾』  けふいくか日数もふりぬ津の国のながらの橋の五月雨の頃     読人しらず
  同      朽ちねただうき身ながらゐはし柱世をわたるべきたつきだになし  僧正慈慶
  『新拾』   君が代はながらのはしの初めより神さびにけり住吉の松       法性寺入道前太政大臣



長柄橋(ながらばし) 大阪市北区
本庄東と大阪市東淀川区柴島とを結ぶ 全長656.4m、幅員20mの橋。 昭和58年(1983)3月完成。

西成郡長柄の里から豊島郡垂水の里までとか、西成郡橋本村から東成郡橋輪にかけてという説もあるが、この辺りには無数の島があり、中島の西の大間からは多くの橋柱を掘り出している。

HOME > 巻之三 東生郡
inserted by FC2 system