衢壌島(くじょうじま) 今、土俗九条島と書す。
寛永年中に香西哲雲(こうさいてつうん)といふ人あり。もとは甲州武田信玄の裔孫にして、水理の才あり。大坂府内海辺より怒涛逆流して、民家・食地を侵して患多し。哲雲上訴して、計策をたてまつり、水利を説く。官家これを許したまふ。ゆゑに哲雲大いに丁夫を興し、砂洲を水口に築き、怒涛を防ぐ。今の四貫島・衢壊洲これなり。それより後、府内民家ことごとく水害を免る。また泉州において荒野を開発す。これを哲雲壁といふ。河州の吏となり民を御す。つひに武城に卒す
     林学士信勝悼詩日く
琴鑠此翁最抜群  矍鑠(かくしゃく)たるこの翁最も抜群
為民督役毎年勤  民の為に督役年毎に勤む
愁心深積士峰雪  愁心深く士峰の雪に積む
変作関東日暮雲  変じて開東日暮の雲と作る


香西ル雲 (かさい‐せきうん) 江戸時代前期の治水家。 幕吏。大坂湾の海水の逆流をふせぐため、寛永元年(1624)中津川(淀川)河口に堤防をきずき、四貫(しかん)島などを開発する。また和泉(いずみ)(大阪府)の荒野を開拓した。

九島院  大阪市西区本田3
西区の寺院中「竜渓禅師墓所」として唯一の市顕彰史跡に指定されています。  
寺伝によると、香西哲雲・池山新兵衛が衢壌島を開発し、その安全と五穀豊穣を願って寛永十年に創建、摂津富田慶瑞寺の竜渓禅師を招じたものといわれています。

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