国分寺(こくぶんじ) 国分寺村にあり。禅宗黄檗派天徳山と号す。中興南源和尚。また西成郡南長柄に同号あり。いづれか国分尼寺ならん。
本尊聖観音 黄金仏・長一尺六寸。往昔、聖武天皇御護仏といふ。相好尋常らず。右手に瓶を持もて、奇作、天竺仏ともいはん。
聖式帝御塔 元禄三年、沙門光厳和尚、当山の初め本願の帝なれば、その報恩としてこれを営み建つる。
仏殿額 玉毫光と書す。隠元和尚筆。
霜柱聯 天は聖王を安んず千年の地、仏は玉台を放つ百宝の光。悦山筆。
古作手水鉢 書院にあり。古代の石器にして奇雅なり。上古の塔の片破と見えたり。
それ当寺は日域六十余州国分寺の一院、聖武帝の草創なり。本尊もすなはちこの帝宮中においての御念持仏なり。年歳積もりて伽藍も頽廃し、やうやく本尊を村中の草堂に安置す。延宝二年黄金仏なる事を知って姦賊これを奪ひ取って行方なし。同八年の事、檗派海内に弘まる時、明の由州の沙門南源和尚、古寺の旧跡を求めて国分寺を再興す。
同年十月二十三日夜、一人の道者観音の像を持ち来りて曰く、これはもと当山の本尊なり。先のとし賊難にて行方なし。今般再興の志願浅からざるによってもとの地へ還居あるなりとて、本尊を堂内に置きてかきけすごとく失せにけり。村老聚りて見れば初めの本尊なり。みな奇異なりとして悦ぶ所に、また京都の檀越よりかくのごとくの木像を寄附す。今の禅堂の本尊これなり。須臾に金木の二体出現したまふ事希代なりとて、遠近の貴賎尊崇厚し。また当村に雷鳴なし。雷落ちず。これまた本尊の奇瑞なりとぞ。世に雷除の観音と賞じける。







摂津国分寺跡(せっつこくぶんじあと)
この地域は昔から国分寺の名を伝え、奈良時代の瓦が出土したこともあって、古来摂津国文寺跡と推定されている。
昭和41年3月  大阪市建立
奈良時代の国家は、災害や外敵からの保護をはじめ五穀豊穣などの利益を仏教によって祈るため、各国ごとに官営の寺院である国分寺(国分層寺)と国分尼寺を建立した。 地名などによる研究のほか、近年の発掘調査により国分寺と国分尼寺の所在地や伽藍配置がはっきりと確認されているところもある。 しかし摂津国については国分寺と国分尼寺の所在地や建立後の変遷について具体的にはわからない。 国分寺については天王寺区国分町のほかに、北区長柄と中央区森之宮中央に「国分」もしくは「国分寺」の名が残り、そのいずれを奈良時代の国分寺の所在地にあてるかについて諸説がある。 この天王寺区国分町の国分公園とその周辺からは奈良時代の古瓦が出土しており、この地を奈良時代の国分寺と考える説が有力である。 平成7年3月  大阪市教育委員会




国分公園 大阪市天王寺区国分町14


国分寺(こくぶんじ) 大阪市天王寺区国分町11-20
黄檗宗万福寺末寺 大徳山



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