君堂(きみどう) 江口里にあり。日蓮宗宝林山寂光寺普賢院と号す。女僧住職す。
江口君像(えぐちのきみのぞう) 本堂に安ず。長一尺ばかり。その外、普賢菩薩の尊像。境内に西行塔・江口君の墓・西行桜あり。また什宝に西行真蹟の和歌あり。
  山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれはしらん物かは    西 行
 それ当寺の由縁、旧記に聞こえず。恐らくは江口の謡曲の文炎を種として、後世いとなみし仏場なり。かの文に西行と和歌椚答の後、江口君は普賢菩薩と現れ船は白象となりて西の空に入るの趣向なり。これは、同じく『撰集抄』に書写山の證空上人播州室津の遊女を見て閉目観念したまへば、たちまち遊女普賢菩薩と見え、また眼を開けばもとの遊女なり。これを江口の遊女に准えて謡の文句を作したり。またそれをこの寺に種として普賢院君堂と号す。右に引書するがごとく、江口の遊女の和歌古実は、『新古今集』『江家次第』、江口尼の事は、西行の『撰集抄』等より外に証とすべき旧記いまだ見来らず。



江口の里
この地は平安時代のはじめ、淀川と神崎川とが結ばれてから、交通の要地として栄え、とくに鎌倉時代寂光寺は江口の君と西行法師との歌物語で、文学上にも聞こえる
   市制施行七十周年記念 昭和三十七年三月 大阪市建之
寂光寺(じゃっこうじ) 大阪市東淀川区南江口町3-13-23
日蓮宗妙経寺末 宝林山普賢院 通称江口の君堂 出家した妙前光前比丘尼が、元久2年(1205)3月14日、普賢菩薩に様を変えて西に傾く月と共に白象に乗って去ったので、弟子の尼僧たちが屋敷跡に宝塔を建てて、宝林山寂光寺とした。 正徳年間(1711年頃)普門比丘尼が再建し、天台宗より日蓮宗に改めた。


本堂 日蓮上人像・江口の君像・鬼子母神像を祀る。


鐘楼 江口の鐘 昭和29年8月再鋳。


西行・妙の歌塚 明治39年(1906)の淀川改修で川底になるため、境内に移転された。


西行・妙の供養塔 大正6年(1917)7月建立。


青畝句碑(せいほくひ) 流燈の帯の句崩れて海に乗る 阿波野敏雄 昭和37年1月建


常盤津塚(ときわずつか) 流祖文字太夫を顕彰。昭和32年建立。

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