僧契沖遺跡(そうけいちゆうのいせき) 東高津餌刺町にあり。円珠庵といふ。
この阿砂阿闍梨契沖師は国学を転くし、和書教編を著す。一歳水戸源義公、『万葉』の纂註を撰みたまふ時、府下に召せども固辞して往かず。
つひに元禄十四年正月二十五日、この地において寂す。年六十二。碑銘を立つ。その文に曰く
 円珠庵契沖阿闍梨碑銘
師、諱は契沖、字は空心、俗姓は下川氏、その先は江州馬淵の邑に住す。祖父又左衛門元宜に至って、肥後守加藤清正に仕ふ。加藤氏国に除せられ、季の子元全、摂州尼崎の城主青山幸利に仕ふ。師はすなはち元全の子なり。寛永十七年庚辰、尼崎に誕す。
甫めて五歳にして、母間氏口から百人一首を授く。旬日にして能く記す。父もまた試みに実語教を読ましむ。日ならずまた記す。父母殆んど庸児に非ざることを駭異す。七歳にして疫を患ふ。巫医験しあらず。牀に在りて密かに天満天神の号を書すること毎日百遍す。三七日に至って、夜異人来現するを夢みる。日く、吾れはこれ菅神なり。汝の至誠を憐み、病を除して延命ならしむ。他日僧と為つて自ら最覚して、後病瘳 ゆ。師、父母に告ぐるに夢中の事を以ってして、懇ろに出家せんと乞ふ。父母可さず。ここにおいて自ら腥葷を絶ち、常に仏号を唱ふ。父母も志を奪ふことを得ず、達にこれを許す。
業を州の今里妙法事手定に受く。密師時に年十一歳、手定始めて般若心経を授け、読むこと四、五遍、背誦して手書す。十三歳にして薙髪し、高野山に登り、東室院左学頭快賢師に謁す。賢、意を加へ誨誘し、屢々祢して以為く、法器なりと。五部の灌頂許可両部大阿闍梨の位を授く。精を励まし益々修す。一山これを推す。寛文二年、檀越の請に依つて摂州生玉曼荼羅院に住す。
既にしてその隣城市を厭ひ、倭歌二首を壁間に題し以つてその志を寓す。一笠一鉢、随意に周遊して、和州長谷寺に詣し、飡を絶して念誦すること一七日。室生山に登り、薫修精練すること三七日。吉野葛城の巳下、凡そ山川霊異なる者も躋攀せずといふこと無し。
また、高野山に登って菩薩戒を円通寺の快円比丘に受け、持律益々 苦しみ、錫を泉州久井里に掛け、山水幽奇を愛す。居ること数歳、三蔵を該ね、悉曇に通じ、旁ら諸宗章疏を窺ふ。『十三経』『史漢』『文選』『白氏文集』に至りては、跋渉せざること無し。名蹟稍く顕れ、従遊の日多し。ここにおいて州の池田川の側に屏居して、『日本紀』以下国史旧記を読む。専ら倭歌を好み、歌書を博探す。
延宝五年、河州鬼住延命寺覚彦師に就きて、安流灌頂を受く。彦以為く、その人を得たりと。師、儀軌二百余巻を写し、和州生駒宝山寺に納むること八年、妙法寺の手定寂し、遺命師に属して住持せしむ。その好む所に非ず。老母今里に在るを以って、巳むことを得ずしてここに住む。寺の傍に一室を構へ、母を移して孝養す。
水戸侯源義公、万薬纂註を撰するに方つて、これを府下に致かんと欲す。固辞して就かず。 しかれども、公の志を感じ、『万薬代匠記』二十巻・『総釈』二巻を作りてこれを上る。 第一に載する所の雄略帝の御製に神代巻を援ひて、無目籠を寵と訓ずる字のごとし。それ雄略は神代を去ることいまだ遠からず。すなはち師訓ずる所は前人のいまだ発せざる所、蓋しその旨を得たり。義公これを見、その卓見且た素意に奇合することを嘉したまひ、白銀一千両拇三十匹を賜ふ。師以って寺院の修造の費に充て、且つ貧乏に胆し、一も以って畜へず。
また、『古今余材妙』を著はす。人麻呂明石の浦の俵歌、旧説に以為く、眺望あるいは送行と為す、師以為く、人麻呂自ら旅懐を述ぶると。ゆゑに紀氏、これを羈旅の部に収む。いはゆる島陰れ行くは、なほ『万葉集』に防人、大理を得る歌に、島陰れ漕ぐ舟と日ふがごとし。必ずしも島の有無を論ずべからず。その落句の古註に日く、行く舟の将に陰れんとするを惜しむなりと。師以為く、自ら舟中伶俜 を燐む、なほ業平八橋の歌思旅の句法のごとし。言はば人麻呂、明石浦に過り、家山日遠く、前程無期、朝霧朦朧の間に漂様す。すなはちその覊思如何にぞや。義公これを読むに、抵掌して以って千古の発明と為す。書を賜ひて一たび来見を欲したまふ。辞して日く、林壑の性、公侯に謁するに慣れずといひて、遂に応ぜず。母歿するに至って院を退き、難波東高津、円珠庵と号するに卜居す。俗客を屏謝し、清修自適す。義公菜資を施し、音問絶えず。元禄十四年正月、微恙あり。二十四日、徒に告げて日く、永訣すること邇きに在り、疑ふ所有ればすなはも質正せよ。涌泉問ひて日く、師、今阿字不正の域に住するや。答へて日く、しかり、凡人平等に当たって差別す。泉が日く、平等差別異無からんや。日く、心平等と雖へども事差別有り、差別の中心平等に当たる、老僧の言これを記せと。二十五日、印を決定して跏跌して化す。年六十二、臘五十。庵を弟子智耀に附す。遺稿二十巻、『漫吟集』と日ふ。隠士長流これが序を為せる。平日著はす所、『厚顔鈔』三巻『勢語臆断』四巻『改観鈔』三巻『源註拾遺』八巻『勝地吐懐編』三巻『河社』二巻『類字名所外集』七巻『名所補翼鈔』八巻『和字正濫鈔』五巻有り。皆義公に上る。『宗門疏鈔』も若干巻有り。師寛厚にして人を愛す。恭謙能く下る。然れども密法の為に邪説を造る者有れば、果然としてこれを闢くること回避する所無し。当時の有識、その鋒に当たる者無し。鳴乎、師の歌学卓絶、古今の人、得てこれを知らず。然れどもこれその余事のみ。歌学を以つて師を諭ずるものや、また師を知る者に非ざるなり。為明嚮に義公の命を欽し、師の庵に就きて、その説を受く。情誼親密、計を聞きて鳴咽して、因つて事実を録するに景慕の万一を攄云ふ。
  元禄壬午正月十一日                         水戸府下安藤新介為明拝撰
碑中に泉州池田川の側に屏居すとは、かの州池田郷万町村伏屋氏の後園に遺蹟今にあり。かつ契沖真跡の和歌多く伏屋氏が家蔵とす。事は『和泉名所図会』に見えたり。





円珠庵(えんじゅあん) 大阪市天王寺区空清町4-2
真言宗御室派 雪光山
摂津八十八所霊場 15番札所


契沖阿闍梨墓
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