柏渡(かしはのわたし) 今の野里のわたしに当る。
『日本紀』云ふ、仁徳帝三十二年秋九月、皇后、紀の熊野に幸したまひ、御綱葉(みつなかしは)を多く取り帰りたまふ。
天皇八田(やたべの)皇女を宮中にいれて愛したまふ。皇后これを恨みて葉(かしは)を船よりちらしたまふ。
これより柏の渡といふ。難波を御津浦といふもこの縁なり。
 『続古今』  船出だす沖津しほさゐ白妙にかしはのわたり浪高く見ゆ  大伴家持




野里の渡し跡(のざとのわたしあと) 大阪市西淀川区野里1-20−14
淀川改修以前の中津川にあった渡し。


大阪市教育委員会の顕彰碑 野里住吉神社境内。

 野里の渡し
1889(明治22)年からの改修工事によって、淀川は流域が大きく変わりました。それまで野里住吉神社の東側は淀川に面していました。現在境内の南側に残る土手は、当寺の堤防のなごりです。
野里の渡しは、大阪と尼崎を結ぶ大和田街道に設けられた渡しで、野里住吉神社のやや北側にありました。1876(明治9)年に木製の橋が架けられるまでは、大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑わっていました。
一説には、室町時代に野里村が開発された時に、代官の堀江彦左衛門によってつくられたといわれています。 また、江戸時代の地誌である『摂津志』・『摂津名所図会』には、『日本書紀』に見える「かしわの渡し」が、野里の渡しであると記されています。     大阪市教育委員会


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