磐船旧蹟(いはふねのきゅうせき) 小橋村の西南田圃の中に一堆の丘あり。字を下至土野原といふ。土人は俗に磐船山とよぶ。これすなはち天探女命磐船に乗りて天降りたまふ時、そのとどまりし地なりとぞ。ゆゑに高津といふ名あり。下至土野原といへるは、かの磐船土中に鎮座したまふよりも下至土と呼べり。これ比売古曾大神の御正体なり。この磐船土中に蔵れましましぬるよりも比売語曾といふ。
『風土記』云ふ「天探女、磐船に乗りてここに到る、天の磐舟の泊るを以て故に高津と号す」云云。『万葉』の註これ粒同じ。『社家註進記』云ふ、人皇十一代垂仁帝御字神石美麗の天女と化し、ここに蔵れたまふより比売古曾と宣ふ。これを俗に姫蔵とも書けり。また順穂院の『八雲御抄』にも、あめのいはふねの泊まる所を高津といふとぞ記したまふ。また『朝野群載』日く「摂津国の東方、味原において石船有り。往年下照姫垂跡」云々。「その磐船四十尋余、二十尋余に亘る。石の中凹凸、中央に宝珠一顆を置く。名けて如意珠と日ふ。その船東北に向ひ、智者を侍ちて揺動す。その上に祠有り、石霊を祭祀す」云々。
        『万葉』       久堅のあまの探女がいはふねのはてし高津はあせにけるかも  角麿
         同            磐舟のいしのおほふねに棹さして行末ながく漕ぎわたるらん 
 村老味原氏の日く、ここに近世元禄年中よりこの地を開発して田園となし、耕作の用水にとて井を掘る。その時七尋ばかりも穿ちしに平面の大石、鍬穿・銚鎒に当たる。
またそのほとりここかしこを掘りぬれども、何地もみな同石にてみがき立てたる石あり。かの井を掘りし老たちまち病を受けて悩乱す。磐船といふ事もいまだしらざりし時なれば、人々驚き恐怖して井を掘る事もこれより止みにきとぞ語りける。
山下清水(やましたのしみず)西小橋村寂聞庵にあり。清冷にして春夏満ちず、秋冬涸れず。

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