一夜官女(いちやかんじょ) 野里村の本居神。住吉の例祭の時、この里の民家より十二、三ばかりの女子に衣裳を改め神供を備ふ。
これを野里の一夜官女といふ。むかし御手村一双の地にして例祭厳重なり。今はその形ばかりを行ふ。



乙女塚 
 野里住吉神社 一夜官女の祭の由来
永徳2年(1382)足利三代将軍義満の創建と伝えられている野里住吉神社の境内の片隅にある「瀧の池」の跡地に乙女塚が建てられている。それには悲しい物語が伝えられている。
中津川に面した昔の野里は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで近隣の村人たちは野里のことを「泣き村」とも呼んでいた。 この村を救う為には、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよとの託宣があり、村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた。 人身御供の子女は毎年1月20日丑三ツ時に唐櫃に入れられて神社に運ばれ放置された。 丁度7年目の行事を準備している時、一人の武士が立倚り、村人からことの詳細を聞き「神は人を救うもので人間を犠牲にすることは神の思召しではない」と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた。 翌朝、そこには武士の姿はなく、大きな「猅々」(ひひ)が深手を負い絶命していた。この武士こそ当時、武者修行中の岩見重太郎であると伝えられている。村ではこの後安寧の日々を送るようになった。
これを後世に永く伝へるため、同じ形式で同じ1月20日に村の災厄除けの祭りをして他に例のない奇祭が行われ今日に至ったものである。 明治40年より2月20日に改められた。 この一夜官女の祭は昭和47年3月31日付で大阪府文化財保護委員会より重要民俗資料として指定されている。 この地は古戦場としても有名であり享禄4年6月4日、細川常植と細川晴元が中津川で戦った時、常植方の本陣が当村であったという。 現在の野里本道が旧中津川の右岸に当り摂津の大物崩という戦がこれである



HOME > 巻之三 東生郡
inserted by FC2 system