稲荷祠 北中嶋惣社也。此辺六ヶ村産土神とす。例祭、六月十八日・九月二十七日。天満宮社家、寺井神主兼帯所也。此所方三町斗の松林也。昔は惣社の浜といひしえお、世謬りて崇禅寺馬場(そうぜんじばば)といふ。
ここに武徳五年の頃、崇禅寺馬場の敵討といふ事世に名高し。その始末を原ぬるに、和州郡山の城主本多侯の家士に遠城治左街門重広(しげひろ)・安藤喜八郎光乗(みつのり)といふ兄弟あり。また末の弟に遠城宗左衝門重次といふ者あり。また同家中に生田伝八郎といふ剣術者あり、弟子多く、みづから高慢して人を侮る事常なり。これを宗左街門若輩ながら見るに忍びず、城主の由前において伝八郎と勝劣を決す。つひに生田大きに負けて門弟に面目を喪ひ、宗左衝門に憤を含んで重次を夜討にして闇夜に逐電す。兄の重広・光乗の異母、悲歎のあまり兄弟の者に語って日く、兄弟の仇にはともに国を同じうせずと承る、敵逃げて城外に出づるといへども、なほいまだ遠からずといふて大いに悲しむ。両士城主へ顧ひ義を立てて、山口武兵衛・伊藤勝右術門と変名し、大坂の方へ赴き尋ねけるに、数日ならずして伝八を見出だし討たんと乞ふ。伝八云ふ、今幸に両士に遇ふてあへて死を惜しむにあらず。今しばらく命を請けて三日の後、静かなる崇禅寺馬場に会し潔く討たれんといふ。両土合点してかならず約諾背くべからずといふて別る。さてもその日に至れば両士は未明より松原に赴き待つれども来らず。その日空しく過ぎぬ。かねて宿所を見届けたれば書翰もって催促す。伝八是非なくその翌日松原へ出でて両士とともに勝負を決す。元来伝八郎は邪佞のものなれば、悪党をかたらひ松陰lこ隠し、勝負の出会あらんと思ふ所、飛道具をもって四方よりねらひ打ちければ、つひに返討に両士とも討たれぬ。その遺跡なればとて、今にこの地を往来する人悲歎せずといふ事なし。兄の遠城治左衛門は年二十六歳、次の安藤喜八郎は二十四歳、初め討たれし宗左術門は十七歳とぞ聞こえし。



中島惣社(なかじまそうじゃ) 大阪市東淀川区東中島4-9-41
白雉2年(651)孝徳天皇が難波長柄豊崎に遷都した頃、五穀豊穣を祈られ、田園多数を下し賜り、神領を寄せたという。


二の鳥居 参道に迫った民家に献灯も組み込まれている。


三の鳥居


狛犬 昭和43年(1968)11月、社殿改築記念として寄進。


拝殿 昭和42年(1967)再建。
稲荷神社(南方字宮西・南方新家字新田)、春日神社(北宮原字宮・南宮原字西宅地)、天満宮(山口字北方・宮原新家字向の町・淡路字原)、皇大神社(西字城)、神明神社(淡路字東寺)八幡宮(柴島字本丸・薬師堂字薬師堂)、須賀神社(淡路字引江の宮)を合祀。


本殿 祭神:宇賀御魂神・受保大神・大市比賣神
相殿:菅原道真公・天児屋根神・経津主神・武甕槌神・姫大神・天照皇大神・事代主神・応神天皇・速素盞鳥神・大名牟遅神・少彦明神・猿田彦神


若宮社 狛犬 昭和62年(1987)9月。


若宮社 祭神:足名槌神・手名槌神・迦具土神・大年神・御歳神・五十猛神・市杵島姫神・楠正成公・大屋津比売神・天宇受売神


大将軍 淡路字浦の大将軍社を合祀。


大将軍拝殿前 狛犬  


大将軍 狛犬  寛政7年(1795)5月。


大将軍 拝殿 祭神:久那斗神・八衢比古神・八衢比女神・金山彦神・大山津見神・罔象女神・於冨加牟津見神


芭蕉句碑落葉塚  宮人よ わが名をちらせ 落葉川  文化10年2月(1987)建立。
貞享4年(1687)芭蕉と木因が伊勢の多度権現に参拝した時に詠んだ句とされる。


忠魂碑 大正8年6月建立。帝国在郷軍人会西中島分会


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