判官松(はんがんのまつ) 大和田にあり。九郎判官義経大物浦へ赴きたまふ時、ここに憩ひたまふとなん。
大坂より尼崎へ往きかふ船より鮮かに見ゆるなり。



判官松之跡(はんがんまつのあと) 大阪市西淀川区大和田5-20-20 大和田住吉神社境内
判官松の碑由来 平家物語巻第11逆櫓の記述によれば「元暦2年2月3日九郎大夫判官義経都をたつて摂津国渡辺(今の堀江)よりふなぞろへして八嶋へすでによせんとす。三河守範頼も同日都をたつて摂津国神崎(今の西淀川)より兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。 平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあい一時避難余儀なくされ、陣を張つたのがこの地である。 その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし一本の松の苗を手植えした。それが判官の松の由来である。 亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の煩事を援助した。 喜こんだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。どうしたことかみるみるうちに行きかえり松の姿に生長した。 尚この庄屋に「鮒子多」(ふじた)の姓を与えたとも伝えられている。(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う船人たちに航海の指針として親しまれた。 明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。


判官松伝承地(はんがんまつでんしょうち)  大阪市西淀川区大野2 大野下水処理場北1号門前
このあたりは 元暦2年(1185)源義経が平家追討の途次、しばしの休息をとったと伝えられる景勝の地で、明治の初めまで近くに判官松と呼ばれる老松と小丘が残っていた。    昭和63年3月  大阪市建立

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