仁徳天皇は鷹狩の折、又我国に渡来し先進文化を伝えた百済の人々の状態を御見聞になる為の道すがら度々当地の森に御休憩された。その由縁によりこの所を御幸の森と称するようになった。 天皇崩御の後、反正天皇2年9月(406)この森に社を建立し、天皇の御神霊を奉祀して御幸の宮と称した。 平安時代中頃、全国に疫病が流行するにより、社僧大蔵院行綱は京都五条天神社より少彦名命を勧請奉斎し、猪飼野の村民の為に厄除祓の祈祷を斎行する。 元和元年、初代大坂城代、松平忠明は大坂夏の陣の戦火に遭った清水谷の社の忍坂彦命の御神霊を当宮に奉遷され、その折、百済川中洲の地三千歩と灯台一基を奉納された。 平成12年御本殿は国の登録文化財に指定された。 付記 当地は仁徳天皇の頃には「猪甘津」と呼ばれていた。 日本食に「猪甘津に橋をわたす」とあるが、当宮の前を流れていた百済川に架けられていた橋であり、文献による日本最初の橋であった。また、「津」とは港のことであり、かつての猪飼野は難波の入江の港町であったことがわかる。 |
この地は、猪飼野と呼ばれ古代より日本と朝鮮半島の人々が交流してきたところです。 約1600年前、百済からの渡来人・王仁博士が、当神社の祭神である仁徳天皇のご即位を、春の到来になぞらえて祝い、難波津の歌を詠んだと伝えられています。
それから歳月を経て江戸時代に、日本と朝鮮との善隣・友好の使節団「朝鮮通信使」が日本に12回(そのうち、大阪には11回)やってきました。 その通信使の来日を祝し、対馬藩の通訳だった雲明(うんめい)が、この和歌をハングルで表し贈ったとされます。
1994年、朝鮮通信使研究家の辛基秀(シンギス)によって兵庫県たつの市の旧家の八瀬家で発見されました。 日本と韓国・朝鮮との友好・共生の時代が永く続くことを願い、この歌碑を難波の猪飼野の地に建立します。 2009年(平成21年)10月吉日 王仁博士「難波津の歌」和文・ハングル歌碑建立委員会 |
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