江口(えぐち) 委しくは難波江口なるべし。大道村の東にあり。初めに述ぶるごとく、この所は川末にして難波江の初めなれは江口といふ。
むかし西海の船、京師に赴く時はここより川舟に乗り替へるなり。海船の湊なれば繁花の地にして遊女もあり。
今農家僅かにありて耕作の地となる。
江口渡口は淀川の支流にしてこの里より北の方一津屋へわたすなり。川の名を神崎川、またの名三国川といふ。
西流して吹田・神崎を歴て大和川を遶り海に入る。むかしはこの江口までも唐船入りし体、旧記に見えたり。
『続日本紀』日く「天平宝字三年十二月、高麗の使高南中、難波の江口に到る」と云々。これ海舶ここに通ひける証なり。
 『菅家後集』  川末の江口に立てる芦田鶴のなくなる声をわれにきかせよ    菅 家
 『土佐日記』  七日、けふは川尻(江ロなり)にふねいりたちて漕ぎのぼるに、河の水ひてなやみわづらふ。八日、なほ河のほとりになづみて鳥養の御牧といふ辺にとどまる。



一津屋樋門(ひとつやひもん) 摂津市一津屋地先
淀川改良工事で閉めきられた神崎川に水を流すため、神崎川分派点に設置され、当初は神崎川樋門と呼ばれ、明治38年6月に完成しました。
その後、昭和36年8月に新しく一津屋樋門がつけかえられました。 平成2年3月改築。

神崎川側 


桓武天皇は延暦4年(785)に和気清麻麿に淀川治水を命じ、『続日本紀』に「兵を遣わして、摂津国神下(かみした)梓江あすさえ)鯵生野(あじふの)を掘りて、三国川に通ぜしむ」とあるように、淀川を現在の江口・別府附近で三国川(神崎川)に合流させる大土木工事が行われました。
この結果、西国から京へは三国川河口から淀川に入ることができ、分岐点の江口は賑やかな遊興地として栄えました。
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