「鯉塚』縁起
寛文8年(1668)網島の漁夫が、現在の淀川で6尺有余の大鯉を格闘数刻の上生捕って背に紋様があり、物珍しくて見世物になった。 間も無く死に当寺に葬り第8代往西和尚が回向した処、其の晩夢枕に1人の武士が現れ「吾は元和の合戦にて徳川勢と戦い討死した」との由。 哀れを感じ和尚は「瀧登鯉山居士」と戒名を授け明方まで読経を続けた。と云う。 誰が袖乙吉の墓 乙吉は元網島の漁夫であり、後に任侠名を馳せ(誰が袖乙吉)と行状有名となり、往古から浪曲・講談にて語りつかれる。 表面 誰が袖乙吉の墓 右側面 寛政7卯年2月12日(1795)と彫られていたが戦災で剥落する。 |
「心中天網島」は享保5年(1720)10月14日当寺「お十夜法要」の夜、天満門前町の紙屋治兵衛と曽根崎新地紀之国屋の小春が密かに参詣した後、「遺書」を残して境内にて情死した。 この事件を文豪近松門左衛門が脚色して、同年12月6日道頓堀、竹本座に於て初演した。 「心中天網島」は近松世話物中の傑作として世に知られる。 法名・釈了智・紙冶 妙春信女・小春の墓 因みに「書置」はのべ紙弐枚に認められ寺宝として現存する。 |
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