網島(あみじま)  京橋の北にあり。
この所は澱川の堤にして、漁家列なり鮮魚を多く市に出だす。また貸食家ありて、風流の第を設け、前には難波律の通船・釣船・網船の逍遥に夏の暑きを忘る。
夕暮の河風に螢飄瑤として吹けども消えず、星の流るるに似たり。また中秋の月は、銀色三千界のけしきありて、流光に棹の音蕭条としてさらなり。
東は志貴・生駒・掠が嶺峠・かづらき・二子山の雪げしきも一興にして、難波最上の名境なるペし。









京橋(きょうばし) 大阪市中央区
京街道の起点にあたり、京へ通じる橋の意でこの名がついた。
京街道の南側は北側と対照的に原っぱで片原町と呼ばれたのが、今の片町の起こりという。
石山本願寺の繁栄に目をつけた近在の農民が、門徒衆を相手に野市を開いた大坂で初めての青物市場で、秀吉も築城後、京橋南詰土手下に野市をまとめさせ振った。
徳川時代の京橋は、天満、天神橋と並んで公儀橋の1つで、高欄擬宝珠に「元和九年造立」の銘があったという。




網島(あみしま)  
大川・寝屋川・平野川の交差する地で、常に水害に悩まされていた。
野田村の漁師の網干場だったことからその名がある。


藤田邸跡公園(ふじたていあとこうえん) 大阪市都島区網島町10 
藤田邸跡公園(桜之宮公園)は、明治時代に実業家として、その名を馳せた男爵藤田傳三郎氏の邸宅の一部にあたり、当時は公園周辺の市長公館や藤田美術館、太閤園などとともに広大な敷地を成していました。
藤田傳三郎氏は明治初期、藤田組を組織し多角経営に従事するかたわら、多くの企業の設立、経営にも関わり、大阪商法会議所の創立に参画し第二代会頭を努めるなど、大阪経済の基礎を築いた関西実業界の中心人物でした。
藤田邸跡は、築山や石積みなどの当時を忍ばせる庭園の一部が良好な状態で残っていたことから、庭園遺構部分を出来る限り保存または復元し、桜之宮公園の一部として整備しました。
作庭者は、梅園梅叟という庭師で、平坦な地形に起伏に富んだ地形を人工的につくり出した、南北方向の築山、滝、流れ等を基本的な構造としています。
特に高い滝石組からの流れや築山中央の流れとその両側の急峻な築山の組み合わせが庭園の中心となっています。
この庭園は平成15年12月19日に「旧藤田邸庭園」として大阪市の名勝の指定を受けました。


大阪市名勝「旧藤田邸庭園」


大阪市公館(おおさかしこうかん) 大阪市都島区網島町10-35
藤田伝三郎男爵の網島御殿西邸部分を昭和18年に購入して市立実業会館として利用したが、昭和20年に戦災により焼失。
昭和34年秋に第5回日米市長及び商工会議所会頭会議が大阪で開催されるのを機に、迎賓館として建造される。
平成19年4月1日、大阪市長公館より改名。昭和34年竣工。竹腰健造設計。


藤田美術館(ふじたびじゅつかん)  大阪市都島区網島町10-32
明治42年(1909)頃に大長寺の跡地を購入して建てた豪邸で、アカガネ御殿とか網島御殿とか呼ばれたが、昭和20年戦災で焼失した。
美術館は昭和29年(1954)5月焼け残った倉庫の一部を改造して、日本では2番目の私立美術館として開館した。
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