味原地(あぢはらのいけ) 小橋村の西にあり。一名、比売古曾神の御影池といふ。土人溜池とよぷ。
    『夫木』     今朝よりはみはらの池に氷ゐてあしの村鳥ひまもとむなり    俊 頼







味原池は天王寺区味原本町にあった大池で、比売許曽神社御影池、又は富池と呼ばれ、農家の灌漑池として利用されてきた。


1905年の地図

大正7年(1918)9月埋め立てられた。




弥栄神社(やさかじんじゃ) 大阪市天王寺区餌差町10-23



味原町碑   大正11年(1922)建立
清水谷木崎孝文竝下丹
今之味原町塡古之味原池而建焉城
南土地株式會社經營之街衢齋整屋
舎雲連而設清堀聯合廉賣市塲物資
如阜可謂盛矣抑此地昔時稱桃山一
泓池水漫漫于其間傳云古味生原即
此地 孝徳天皇味經宮故址在焉而
攝津志則屬之島下郡學者無或異議
但其傳稱之久加之以桃花之盛都人
行樂之地今也市街新興蔚然有殷富
之象以加大阪之大可不抃而賀乎當
時任經營者曰藤本君清兵衛曰加嶋
君安治郎曰竹原君友三郎而井上君
千吉專勾當其事理煩解難其勞可社
傳也併記勒之貞石  大正壬戌紀元節




弥栄神社(やえじんじゃ) 大阪市生野区桃谷2-16-22
文録年間に出雲国意宇郡の熊野巫神社より素盞嗚命を分霊奉還し、牛頭天王社と呼ばれた木野村の産土神。
明治5年(1872)に彌栄神社と改め、明治43年(1910)、岡村の御館神社を合祀。


味原池碑 
農は天下の大本也、民の恃み以って生きる処也と詔し給ひしより以降二千余季、世々の聖帝多く池溝を設けしめ玉ふ。摂津国東生郡木野村に溜池あり。一を富池といひ、一を味原池といふ。富池は既に廃れて、味原池のみ同村を距る西に四丁余の高地に現在しありしが、明治・大正の世に及びて戸口頓に繁殖し、昨の田圃変して市となす声とはなりぬ。かくて灌漑の用絶えて徒らに雨水の貯へあるのみ、其広茅古来三百三十余畝を以って伝ふ。水量の大亦以って想ひ見るべし、明治の末季廃池の議ありて諸説区々なりしが、遂に大正八年決然池敷を市人に估却し、其が値価の幾分を氏神弥栄神社に納めて悠久の社資に供し、以って村民がこの池の為に累世子々孫々の栄を見るに至りたる恩沢に報ひむとす。爾来村民中これに係はる人士等相計りて碑を社前に造立し、以って不朽に垂ると爾云。       大正八季乙未晩秋日 生田南水 篆額並選書






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