遊行寺薬師堂(ゆぎようでらやくしどう) 勝鬘坂にあり。時宗仏智山円成院極楽寺といふ。
本尊薬師仏 竜宮出現立像長三尺六寸。寺説に云ふ、むかし皇太子勝鬘経講讃の霊場旧蹟なり。
時宗の祖一遍上人、天王寺参籠の時の寓舎なり。遊行五十一世賦存上人これを求めて、薬師堂再営ありて遊行一派の道場となる。
芭蕉翁像 本堂の側に安す。座像、一尺七寸。この肖像初めは近州にあり。また江府にもしばらく在せしを、近年二柳・旧国・蝶夢などいふ俳帥の寄附しけるとぞ聞こえし。由縁別記に書す。
芭蕉翁の碑 高九尺。初めは当寺厨の傍にあり。近年堂前に移す。表題、黄檗佚山の筆。
背文は滋野井中納言公澄卿の墨跡。銘は豊前州の医師香月牛山撰す。

 背文  曼倩詼語 相如俳文 玅辞奇句 思入風雲
         表題 芭蕉翁墓
黄檗佚山筆
享保十九甲寅晩秋日 前豊倉藩医官八十翁牛山香月啓益誌
碑銘に日く、
桃青子、姓は松尾、字は甚質、芭蕉翁と号す。伊賀に産して伊勢に官し、難波に卒す。
その顛末は野坡子の碑文に載す。ゆゑに贅せず。余嘗て世間九流百家師を称して弟と呼ぶ者を観るに、生前その徳を懐ふ者虎も多し。身投するに及んでその恩を報ゆる者甚だ少なきは何ぞや。蓋しその道を学びていまだ得ざれは、すなはち千里を達しとせずして来りて、事を左右に待ちて、仰いでその徳を望む。これ彼に求むる所有ればなり。既にこれを得ればすなはもこれを棄つること弁髪のごとくにして、師と称するを恥を以つてす。況んやその恩に報ふや。それ誹諧とは和歌の一体なり。これを嗜む者、これが道を称して、これが師の択ぶはまた宜からざらんや。 翁素よりこの道を嗜え、壮にして致仕し、遂に郷を離れて両都および難波に到りて、之く所の処、門人弟子室廬を営じ、衣食を致して以つてこれを給す。然れどもその性酒落にして四壁して立てば、寓する所、突黔の地無し。その動静語黙必ず誂ふにこの道の盟主、滑稽の巨擘なりと謂ふべし。嘗て弟子に謂ひて日く、誹語は和歌の一体なり、古哲はいはゆる和歌に師無し、己が性情を伸ばしてこれを吟味す、しかして天下の口、一世にして時とともに柑変はるに非ず。ゆゑを以って格調もまた自づから異る。なほ和歌の今古に於けるは、唐詩の盛晩に於けるがごとし。然れども、唯々、結選の道如何といふを顧るのみ。翁のこの道を得るに頼りて、その惑ひを解する者億満が、翕然として化す。蓋し、関より西・束この道を嗜む者は、悉くこれに帰を一に為さざるは莫し。ここに皆その流亜を称す。就中野坡子の傑然としてその緒を継ぐ、以つてこの道を四方に倡ふたり。翁の七回諱の辰に当たりて西肥に遠来してその門人を縦臾して、碣を長崎に建てて、自ら碑文を裁す。また十七回忌の歴に当たりて、筑紫に来りてその弟子と与に相ひ謀りて、碑を宮崎に建つ。今ここに赤間の関に来りて、防長以東に券し、難波諸州の門生に迄りて、石碑を彫刻し、天王寺裏某所に建てり。その他、翁の墓散じて、請州に在るもの、一は江の義仲寺に在り、一は東都深川長慶寺に在り。その洛の双林寺に在るものは、翁の門人支考が建てし所と云へり。今、野坡子の建つる所のものは、蓋し難波は翁の卒する所の地なり。ここに師の徳を久遠に伝へて朽ちざらんと欲するも、師の恩を謝するや。当に己に以つて誼しからざるペし。一日野坡子余が門を扣きて来りて、告げて日く、我既に老いたり。翁の五十回忌に建つるも、また知るべからず。ゆゑにこの挙に有りて、今年は実に翁の謝世四十一年と云ふ。碑文に余に乞ふて日く、吾子の巧みに勒するに、余不敏なりと雖へども、あへて辞せざらんや。その師の息に謝せんと欲するの志を嘉奨して誌を為さんとすと云ふ。






円成院(えんしょういん) 大阪市天王寺区下寺町2-2-30
時宗 仏智山円成院 極楽寺 通称遊行寺
鎌倉時代に一遍上人が四天王寺参詣の折、ここに庵を構えたのが渕源。
延享元年(1744)僧賦存が再建し、本尊薬師仏を祀った本堂は遊行薬師堂と呼ばれて評判となった。




本堂 本尊:薬師仏 


芭蕉翁墓


〔正面〕   曼倩詼語
       相如俳文   芭蕉翁墓 真竹子書
       妙辞奇句
       思入風雪 
〔側面〕   浅生庵野坡
       私淑 浪華後藤梅従甫 等与建
       洛下額田風之甫 
〔裏面〕  碑銘
桃青子姓松尾字甚質號芭蕉翁産干伊賀宦干伊勢卒干難波其顛末載干野坡子
之碑文故不贅矣余嘗觀世間九流百家稱師呼弟者生前懐其徳者最多及身沒也
報其恩者甚少何乎葢學其道而未得則不遠千里來侍事左右而仰望其徳是有所
求干彼也既得之則棄之如弁髦以耻稱師況乎報其恩耶夫誹諧者和歌之一體也
嗜之者稱之道而擇之師者不亦宜乎翁素嗜此道壯而致仕遂離郷而到干両都及
難波所到之處門人弟子營室廬致衣食以給焉然其性洒脱四壁而立所寓無突黔
之地其動静語黙必於誹可謂此道之盟主滑稽之巨擘也嘗謂弟子曰誹諧者和歌
之一體也古哲所謂和歌無師伸己之性情而吟詠焉而天下之口非一世與時相變
矣以故格調亦自異猶和歌於今古唐詩於盛晩然唯顧結選道如何耳頼翁得此道
解其惑者億萬翕然而化矣葢關之西東嗜此道者悉莫不為之帰壹是皆稱其流亞
就中野坡子傑然繼其緒以倡此道干四方當翁之七回諱辰遠來西肥縦臾其門人
而建碣干長崎乎自裁碑文復當十七回忌之歴來筑紫與其弟子相謀而建碑干筥
崎今茲來赤間關卷防長以東迄難波諸州門生而彫刻石碑建干天王寺裏某所其
他翁之墓散在諸州者一在江之義仲寺一在東都深川長慶寺其在洛之雙林寺者
翁之門人支考所建云今野坡子所建者葢難波翁之所卒地也是欲傳師徳乎久遠
而不朽謝師恩乎當己以不誼也一日野坡子扣餘門來告曰我既老矣逮翁之五十
回忌亦不可知故有此舉今年實翁之謝世四十一年云且乞碑文余曰吾子之功其
勤哉余雖不敏不敢辭嘉奨其欲謝師恩之志為誌云
享保十九甲寅歳晩秋日前豊倉藩医官八十老翁牛山香月啓益誌


芭蕉旅病句碑  
正面 絶筆句
    旅に病で夢は枯野をかけ廻る  はせを
背面 天明三年葵卯三月十二日  
    原建願主柳生庵野坡同社中  
    重複願主二柳庵桃居同社中  
側面 円成院五世弁亮師時改卜墓地来  
由記 需詠冊在院  
    とし経ぬる心ぼせをやわすれ霜 二柳庵
 
 


芭蕉茶屋 二百年祭建之応需 馬田江公年書
楓下亭夕映 西区阿波堀通 八木利助

遊行寺の向かい側に戦前まであったという。



文楽翁之碑 2代文楽軒 明治22年(1889)建立

植村文楽軒墓所碑(うえむらぶんらくけん) 昭和40年5月 大阪市建立。
初代文楽軒は江戸中期の人で、いわゆる文楽の芝居をおこし人形浄瑠璃興行に新時代をもたらした斯道の恩人である。
文化7年(1810)没。
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