浮瀬にて酒をすすめ相坂のしみづによりて 相坂の水に紅葉のかげみれば今や照るらん酒ずきの顔


                             浮瀬什物
 七人猩々大觴 六升半入
 むかしよりただ二人飲みしといふ
貝觴 銘浮瀬 服巾唐織あるいは云ふ、長曽我部氏の陣羽織の切
葉月中の五日の夜、人みな月にめでうかぶ瀬の貝にて
酒のみとる即興に、大海の月を飲みほす今宵かな


浮瀬(うかむせ)  といふ游筵の看楼は新清水に隣る。もとこの名は貝觴の銘にして、その器を見るに、鮑の貝の十一の穴あるを塞ぎて、酒をこれに盛れば七合半盛れるなり。 これに満酌して飲ずる人を誉とし、暢酣幉を出だしその名を署す。これ風俗なりとぞ。
由縁斉が、
  ひとつなる人に見せはや津の国の難波あたりの浮瀬の月      貞 柳
この貝盃の袋は唐織にして、むかし長曾我部元親といふ勇将の陣羽織といふ。また幾瀬といふ貝盃あり。これは鶉貝なり。わづか一合余り盛れる。この袋も浮瀬と同じ。
あるは銘を鳴門と号して夜光貝の杯あり。紅毛わたりの貝巵、銘を春風といふ。 君が為・梅がえなどいふ鮑の酒器あり。七人猩々といふ盃は常の盞にして、朱塗に七人猩々の蒔絵あり。大器にして六升五合盛れるとぞ。むかしより二人ばかりこれにて飲しけるとぞ聞こえし。
また『万葉』に見えたる三輪の於喜寿恵といふ土器あり。これは大むかし醴をこれに盛りて土中に埋づみ、その所の土神を祭りし器なり。
また芭蕉翁の一軸あり。
  松風の軒をめぐりて秋くれぬ 
これは、この翁浪速津に旅寝したまふ時、甫御堂の前、はな屋がうらにて遺したまふ前、九月二十六日したため遺されしとなり。今に松風会とてありとなん。
またこの翁の句に、
  この秋は何でとしよる雲に鳥   はせを
これもこの亭の什物なりとぞ。その真偽はしらず。また半時庵が、
  稲妻のある夜しらせよ四郎右衛門                淡 々 
この第のあるじの名をかくいふとなん。そもそもここの酒旗世に飄りて、請国の飲客浪華に到れば、まづこの帘に拠りて、この酒器を観て興じ、あるいは飲し、劉伶が陶陶たる楽しみもここに見えて、弦歌に戯れ、雪に酔ひ、花に醒して、遙かに滄浪を見れば斜陽の遠帆にかくれ、三日の月淡路島山に落ちかかるけしきも、みなこの觚を饗しける風情なり。
飲器の大いなるを武といひ、小さきを文といひて、中華にも浮瀬・幾瀬の類ありけるとぞ聞こえし。













料亭浮瀬跡(うかむせ) 大阪市天王寺区伶人町1-6 星光学院
浮瀬は西照庵(月江寺裏門西)、福屋(一心寺北)と並ぶ大坂を代表した料亭。
はじめは「晴々亭」と呼ばれ、松林に囲まれた二階建の見晴らしのよい店で、大鮑を杯にした奇杯で評判となり、その銘が「浮瀬」であったことから、亭名となった。

芭蕉松風句碑
松風の軒をめぐって秋くれぬ   はせお翁
正風宗師松風碑の賛
をしてるやよし芦のなに波江に
影うかぶせの昔ゆかしき
いしぶみの石まつかぜの
ここは翁のあとは絶せじ
 芭蕉3世劣孫 不二庵桃居誌
 寛政庚申秋 茅渟奇渕



HOME > 巻之二 東成郡
inserted by FC2 system