荒陵山四天王寺敬田院(こうりょうさんしてんのうじけいでんいん)東生郡にあり。
宗旨八宗兼学、今時天台宗江府東叡山日光御門跡に属す。一名難波寺、また難波大寺、また御津寺法花園、また堀江寺、また荒陵寺ともいふ。
 『新古今』    難波のみつの寺にて芦の要のそよぐをききて
      あしそよぐしはせの浪のいつまでか浮世中にうかびあたらん  行基菩薩
 それ当山は上宮太子の御草創なり。由来は『太子伝』にありて世の知る所なれば、
委しく記するに逮はず。ほぼ国史・紀伝を按ずるに、皇太子は用明天皇第一の皇子にして、欽明帝即位三十三年壬辰の春正月元旦に降誕ましまし、厩戸の前にて御母御産の気ありけるによって、御名を厩戸皇子と号け奉る(またの名、聖徳太子、あるいは耳聴王子、あるい豊聴耳法大王、あるいは法号王と称す)。敏達帝六年冬十一月、太子六歳の時、百済国より経論二百巻日本に渡る。これ天竺の仏教わが朝にわたりし始まりなり。太子八歳の御時には、新羅国より金像の釈迦三尊を、わが朝へ渡し奉るゆゑ、君臣共に厚く尊崇ありけるに、物部守屋大連進み出でて申しけるは、わが朝は二柱太神はじめて建てさせたまふ御国なるゆゑ神国なり。天地ひらけてよりこのかた、神徳をもって国家の政事をなす、かるがゆゑに数千載平安にし万民豊饒なり。校ふるに仏はもと夷秋の人にして、今外戒の邪法を敬恭したまふ事、たちまち神明の崇あらん。早く仏像・経巻を水火に投じて、永く根本を断ち、天下の人の疑ひを止めて後代の惑ひを散じたまはば、神明の擁護万々歳ならん。もし仏霊有って禍ひをなさばよろしく臣が身に加ふべしと、諌秦数日に及びしかども、蘇我馬子太子の傍に在って讒しければ、守屋大連大いに怒り、同帝十四年太子十四歳の時、仏法最初の建立、元興寺・興厳寺を焼き払ひ、仏像・経論もことごとく灰燼となし、僧尼を流刑し、なほも蘇我をはじめ姦佞邪悪の臣を滅ぽきんとて、その勢二十九万三千余騎にて、河内国渋川城に楯籠る。時に崇峻帝二年秋七月、諸皇子・群臣軍議して、今守屋大連暴逆し百官に敵す。いざや減ぽきんとて、泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰・紀臣麻呂宿禰・巨勢臣比良・膳臣賀だ夫・葛城臣烏那羅等、軍勢を率ゐて急ぎ守屋を討たんと計る。また大伴連噛・阿陪臣・平群臣神手・阪本臣糠手・春日臣等は・ともに軍兵を従へ志紀郡より渋河の家に到る。守屋大連は親子弟と奴軍を率ゐて稲村城を築き、ここにおいて大いに責め戦う事急なり。
大連衣楷して朴枝の問に昇り臨みて射る事雨のごとし。その軍強盛にして野に溢れたり。官軍大きに恐怖して三廻却還き逃ぐる。この時、厩戸皇子は束髪を額にして軍の後に随ひ、みづからはかりて日く、まさに敗軍無からん事は仏神の祈願にあらずんば成り難し。すなはち自膠木を斬り取って、疾く四天王の像を作り、頂髪に置めて誓つて日く、今もしわれをして敵に勝たしめたまはば、かたらずまさに護世四天王の寺塔を起立し奉るペし。蘇我馬子大臣もまた誓願して日く、すべて諸天大神王われを助街りて利益を穫さしめは、諸天王の奉為に堂塔を建立し三宝を流通へんと、言ひ巳りて兵を進ましむ。太子の御馬廻には身の丈八大はかりの勇猛の臣あらはれ、敵を滅ぼす事幾千の数をしらず。これ四天王の化現なりとぞ。迹見首赤檮(あとみのおうといちび)は射術の妙手なれば、つひに守屋大連を技下に射堕して凱歌をぞ上げにける。すなはち大連が親族ことごとく誅せられ、敵軍大いに敗れて、落ち失せる者数をしらず。ここにおいて軍静まり平天下となれば、祈誓のごとく摂津国において初めて四天王寺を建立したまふ御営みあり。すなはも守屋・勝海等が所領田園十八万六千八百九十代を没収して寺領にあてたまふ。河内国弓削・鞍作等の故地十二万八千六百四十代、ならびに摂津国鵄田・能擬等の散地五万八千二百五十代・田園十二万八千余町・館舎八箇所、左右の大臣・四人の将軍・官兵に配分したまふ。生捕二百七十三人の男女を召し出だして太子みづから御教化あって、山家入道として四十六ヶ所の伽藍にわかち遣はし、奴稗・承仕となしたまへり。また守屋大臣・中臣勝海以下八の頚をば、法隆寺の廻廊戌亥第三間の柱の下に深く埋ませ供養ありけり。この時守屋は四十二歳、太子は十六歳の御時なり。その後、太子二十二歳の御崎、御伯母豊御食炊屋姫は敏達帝の皇女にてましませしが、崇神帝崩じたまふ後、御即位有って推古天皇と申し奉る。太子は、周成王の時、周公旦の例をもって勅ありて、摂政として万機の政を補佐し四海の民を撫育したまふ。これ我が朝摂禄のはじめなり。最初は玉造の岸に当寺を建立したまふ処、魚鱗高濤を立て岸を崩し、赤く斑らなる鳥多く聚り来って仏閣を破り、蝮蝎数をしらず堂塔を穿ち損ふ。太子曰く、これは守屋の逆臣等が霊来って損ひ破るなり。かの群烏を降伏せん為に太子大鷹と現じたまひければ、みな逃げ失せ行衛なく成りにけり。寺つつきといふ鳥はこれなり。今も金堂の後の蟆股の雌雄の鷹の彫物はこの緑とぞ聞こゆ。
ここにおいて玉造の岸より三十余町南荒陵の地に引き移し、今のごとく建営したまへり。材石は山城国愛宕郡折田郷土車里より運送す。ここにまた太子の守本尊、如意輪観音の霊瑞あれば、六角堂を建営しおひおひ四十六箇所の精舎をいとなみたまひける。今の荒陵山は過去七仏転法輪の砌なれば、長者の御身の時、如来を供養し正法を護持まします。その由縁をもって伽藍を建立したまふなり。しからばこの霊地には雀巣をくはず、蛇を見ず、池の蛙の音もせず、蝮蝎なく、寺つつき鳥来らず、おのづから石より水を出だす。これを白石玉出清水と号す。菩提心よりこれを服すれば法薬となる。極楽浄土の東門に当たって三棺同居の廟地に定む。これより浄土に望めば、紫雲遷りて中道に帰す。悪趣を厭ふ輩は春の雨よりも滋し。善道に至る族は秋の草の風になびくよりも多し。四筒の院を営みたまふは四節の意願なり。ひとたびこの浄刹こ詣する輩は、出願聖霊の素意に任せて、一仏浄土の本懐を遂ぐべきものなり(已上、『日本紀』『太子本願縁起』『太子伝』等の要文を採る)。
 そもそも当山別当職は、承和年中、円行和上これ初任の別当なり。元永中には大僧正行尊、保延元年には行慶僧都、保元中にほ道慈法親王、長寛二年には[文見]性(もんしょう)法親王、治承の頃は明雲法印、寿永三年に定恵和尚、建久七年に実慶、承元元年の頃は大僧正慈円別当職を勤めたまふ。またの御名慈鎮。
 『夫木』  わが太子四もの八町のうちをだになは化しかぬる心くるしき   慈鎮和尚
この詠は慈鎮和尚ここに寺務したまふ時の歌なり。荒陵の号は仁徳帝五十八年の紀に見えたり。今の茶臼山をいふなり。承元の末には真性大僧正寺務し、永仁の頃には良観上人(またの名忍性上人、鎌倉極楽寺の開基なり。謚号、聖応大師。『元亨釈書』に見ゆ)、元和元年には台命によって南光坊天海大僧正、寺務別当と成る(江戸東叡山の開基、謚号慈恨大師)。世々の騒擾に荒廃すといへども、天子・将軍家の崇敬厚くすみやかに修造を加へたまふ事数回なり。元弘二年楠正成天王寺に出張し、渡辺の橋の南にて隅田・高橋を滅ぼし、同年八月正成、太子の 『未来記』披見の事、『太平記』に見えたり。これは楠兵術の深き思慮ある事にして他にしるべきにあらず。近くは天正四年五月三日寇火に罹る。その後豊太閤命じて再興に及ぶ。また元和中兵火して、慶長に将軍家より再興を命ぜられて、すでに旧観に複す。また寛文四年に修補ありて、境内東西八町・南北六町、諸伽藍ことごとく疇昔に変はらず厳然たり。『日本紀』に見えたる浄刹、多くは頽廃し名のみ遺りて、桑田海と変ずるもの多し。当山は皇太子御創建の相にして、今一千二百有余歳を累る事、天竺・震旦にもいまだこの期を聞かざるの梵園なり。
 『千載』   崇徳院天王寺に御幸の時、古寺思昔といふ事を
       世をすくふ跡はむかしにかはらねどはじめたてけん時をしぞ思ふ  藤原宣長


四天王寺(してんのうじ) 大阪市天王寺区四天王寺1-11-18


西大門(極楽門)


中門(仁王門)


五重塔  


金堂  本尊:救世観音


講堂  本尊:阿弥陀如来、十一面観音


西重門  


太子殿 


南大門


東大門

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