六万体(ろくまんたい) すべて天王寺郷中に形ばかりの石像あり。諺に云ふ、聖徳太子六万体の石地蔵を鐫りてこの辺に置きたまへりとぞ。今も折々には田畑よりも堀り出だす事あり。
毎年十二月十六日にはこの石仏に生鰯を供じ、顔に米の粉を塗り、笹に蜜柑と煎餅を付けて供養し、同日夕方には、藁火を焼いて石仏を黒くし、明年の明年のと囃して踊る。これを道禄神祭といふ。按ずるにこれ遺祖神の火焼なるペし。
神体は猿田彦命にて仏家にいふ本地地蔵菩薩なり。この節の二、三日以前より、里の童ども縄を路に引きて往来の人をとどめ、さをじやさをじや、天王寺の作法じや、お太子さまの仰せじや、といひて鳥目を乞ひ、これをもって供物を調へ、かの石地蔵に供す。
いつの頃より細まりしにやしらず。この祭を土人は泥くじり祭といひ、勝鬘院の東のほとりを、そうじて六万体と地名を呼ぶはこの謂にゃあらん。
京師にも七月二十四日の頃には四衢にある石仏の地蔵をにはかに濯ひ清めて、面貌に紅粉を塗りて化粧し、さまざまの供物そなへ、軒には斎竹を立て、地蔵祭講、地蔵の銭貰と囃して往来をとどむ。
これは軻過突智の祭にして、四時の運行、火剋、金の風駟穏やかならしめんとの神事なるペし。
この六万体の道禄神まつりは、諸社の火焼、あるいは里神楽・庭火のたぐひならんか。
ある人問ふて云ふ、六万体の石仏皇太子の御作とかや、しかれば降誕の日より四十九年の薨御の日まで、これのみにかからせたまひても一日に三体半ばかりに当たるといふを答へて
     観音の一矢が千の矢さきなり六十体が六万となる        斑 竹






真光院(しんこういん) 大阪市天王寺区夕陽丘町4-8
山号光徳山、四天王寺末寺、本尊阿弥陀仏。
寺伝によると聖徳太子がインドの祇園精舎の西北に無常院を置いたのを模して、四天王寺無常院菩提所と定めたのが起源になっている。
山門の傍に、「聖徳太子作六万体地蔵安置」の標柱が建ち、聖徳太子が六万体の石の地蔵をこの辺りで彫ったといわれる。
江戸の頃は毎年11月16日の奇習「どろくじり祭」があった。
石仏に、生鰯を供え顔に米粉を塗り、笹にみかんやせんべいをつけて供養し、夕刻藁を焚いて仏の顔を真っ黒にし「明年(脇当)の明年の」とはやしながら踊る。
またその三日前から子供たちは道に綱を引いて通行人をとどめ、「これが天王寺の作法じゃ、太子さまの仰せじゃ」とはやしてお金をもらって通し、そのお金でお供えをしたあといただくのを楽しみにしていた。
  童なわ引き道さへぎりけるに鳥目十文かぞへ遺すとて
  なはぼりの関所通せよよみ立ちて やるぞ勧進てふと十文  貞右


本堂


六地蔵 1円玉より小さな小判が6枚用意されており、
1枚1枚祈念して蓮の葉を模した水鉢に奉げる。


不動堂
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