百済野(くだらの) 南は天王寺の東の野辺より、北は木村小橋のほとりをいふ。もと郡名なり。
『続日本紀』に日く「百済郡荒廃の田二十七町の野を源朝臣勝に賜ふ」と云々。
俗諺に云ふ、百済の村邑、西部・南部・東部等は、仁徳帝の御時潮水逆上つて海となるとぞ。しかりといへども順の『和名』に載せられたり。後世百済の都里を闕いて、東生の大郡に結ぶ。
ゆゑに東生別郡と書けり。近世また闕の字も除いて、今百済郡断絶せり。披ずるに、騒乱の後、領主・地頭、東生にある時は、その近辺一円に我が郡名とする事あり。これ、兵乱の後、郡界不分明なればなり。近江国においても善積の一都闕けたり。これもこの類なるペし。
大坂船場久太郎町を実は百済町といふ説あり。分明ならず。韻の同じければかく附会の説をいふなり。
   『万葉』     くだら野の萩のふるえに春まつと住みし鴬なきにけんかも   赤 人
   『夫木』     百済野のちがやが下のひめゆりの寝所人にしられぬぞうき   仲 実
     同     くだら野のささめが下にふすうづらわやもあらはに冬はきにけり   道因法師

    
  












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