北畠顕家卿墓(きたばたけあきいへきようのはか)  阿部野にあり。土人大名塚と呼ぶ。
顕家郷は、正二位大納言北畠准后親房卿の長子なり。
元弘三年陸奥国司兼鎮守府将軍に任ず。建武丙子の春、賊軍京師を陥す。帝台嶺に幸す。顕家卿、義貞・正成と京師を敗り、北ぐるを逐ふて当国豊島河原に戦ふ。賊軍敗走して西海に奔る。これによつて詔して征夷将軍と成り、同三月中納言を拝し、また鎮守府大将軍に任じ、つひに任国に下る。
帝南狩したまふ時に、顕家卿霊山の城に在つて急ぎ軍士を徴し、結城道忠等を率いて上野国利根川に戟ひ、つひに鎌倉を陥す。軍兵を躯つて濃州黒血川に到つて力戦利あらず。よつて勢州を歴て南郡に屯し、般若坂に戟ふ。また利あらず。ここにおいて故事を鳩集し堺浦に屯し、つひに軍を進めてこの野に餓死す。その時元弘四年五月二十二日なり。帝はなはだ悼傷したまふ。勅して従二位を贈りたまふ。
顕家卿の御父北山准后親房卿は、具平親王の苗裔、大納言師重の子、村上源氏にして『職原鈔』の作者なり。人皇九十五代後醍醐天皇に仕へ、北条高時を亡ぼし天下一統の後、また足利尊の叛逆によつて吉野の宮に遷り、これを南朝と号す。尊氏光明院を立て京都の天皇とす。ゆゑに天下ことごとく南北の両京を称す。南朝北朝各紀元を建つ。南朝延文四年八月十六日南帝崩ず。
第七の亀子後村上院即位、明年興国と改元、北朝の光明院暦応三年なり。後村上院御幼少より、親房卿先帝の遺詔を奉けて政を接す。この帝初めより准后の嫡子顕家卿をもって犬傅とす。それ官職は禁裏の大本なり。ゆゑに興国元年二月『職原鈔』を撰んで幼帝に数へ奉る。けだしこれは、周公殷の命を黜け淮夷を滅ぼし、州に遷り豊に在つて周官を作るの遺意なりとぞ(巳上『職原参考』大意)。
『吉野拾遺』云ふ、  
 先帝の御時、源中納言みちのくのいくさをあまたしたがへたまひ、国々もたひらげてみのの国までおはしけるよし、さきだちて間こえければ、うへよりはじめてたのもしき事におぼしたまひけるに、阿部野の霹ときえさせたまひけると、刑部丞ともなりが、そのきはのありさまを、まゐりてなくなくかたるに、ともし火のきえぬるやうになむ人々の御心はなりにけり。御父の胸はいかばかりおぼすにか、
   ききだてし心もよしや中々にうき世のことを思ひわすれて    親房卿  
北の御かたはただふししづませたまふて、さらに御心地はなかりけるを、さわざておもてに水などそそぎしける程に、またの日の夕暮の程にすこし御心地のいできさせたまひて、
   玉の緒のたえも果てなでくりかへしおなじ浮世にむすばふるらん 北の方
なほおなじ道にとおぼしたちたまへる御けしきのいちじるく侍りけ九は、立ちさりたまはで人々のまもりければ、御心にもまかせたまはで、観心寺といへる山寺にて御ぐしおろしてすませたまへるに、
   そむきてもなは忘られぬ面影はうき世の外の物にやあるらん   同
ここに三とせが程過ごしたまふて、世のさわざもしばしばしつまりけれは、さすがふるさとのかたや思ひ出だされけむ、吉野山を出でさせたまふとて、    いづくにか心をとめむ三吉野のよしのの山を出でてゆく身は   同
親房卿の御もとにしばしばおはして、暁がたに立ち出でさせたまひけるに、御名残のつきさせたまはぬまま、うき世の事にて有りけ九は、かへり見たまへるに、あり明の月のいとさやかに山の端もかくみえければ、
   別るれどあひも思はぬ三吉野のみねにさやけき有明の月     同
阿部野を過ぎさせたまひけるに、ここなむその人のきえさせたまふ所と告げけれぱ、草の上にたふれふさせたまひて、
   なき人のかたみの野辺の草枕夢もむかしの袖のしら露      同
このほとりに刑部丞ともなりが世をそむきてありけるを、尋ねさせたまひけるに、いそぎ参りて御ありさまを見奉る。さしもゆゆしくわたらせたまひける御よそはひの、いつしかかばかりおとろへさせたまひけるにやと、涙もとどめあへで、住吉・天王寺のほとりまで御おくりに参りて、所々あないしけるに、天王寺亀井の水のほとりなる松の木をけづらして、
   後の世のちぎりのために残しけりむすぷ亀井の水くきの跡    同
と書きつけたまへり。それよりともなり入道は帰りにけり。一とせまた尋ね来りて語りけるに、いとあはれに思ひ奉りて、そののち天王寺に参りけるに、御筆の跡のきえもはてずして残りけるを見まゐらせて、そぞろに神をしぼりにけるにこそ。その後都にのぼらせたまひて、母君とともに世をそむきておほしけるが、さきだちたまひて、またの年の春うせさせたまひけると聞こえし。中納言資胡脚の御むすめなりしとぞ。







北畠顕家墓(きたばたけあきいえはか) 大阪市阿倍野区王子町3-8 北畠公園
別当鎮守府将軍従二位権中納言兼 右衛門督陸奥守源朝臣顕家卿之墓
享保八年(1723)並河誠所 建立



 北畠顕家公の上奏文の要約
1.西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎭を置くこと。
1.戦争で疲弊した民の租税を減免し、倹約すること。
1.官爵、登用は慎重に行うこと。
1.貴族、僧侶等への恩賞は、働きに応じて与えること。
1.臨時の行幸や酒宴は控えること。
1.法令に尊厳をもたせること。
1.公家・官女・僧侶などのうちに政治に介入して政務を害する者あり益のないものは退けること。
 延元3年(1338)5月15日  
    従二位権中納言
    兼陸奥大介鎭守府大将軍
      臣  源朝臣顕家  上



北畠顕家卿之墓(きたばたけあきいえきょうのはか)

後醍醐天皇の王政復古の御理想により、源頼朝以来の鎌倉幕府を支配していた執権北條氏を新田義貞他の諸将の協力により討ち滅して建武の中興が成り(1333)、当時参議左近衛中将であった北畠顕家公は武芸とは無縁の公卿の身でありながら後醍醐天皇の命により16才の若さで陸奥守に任ぜられ、皇子義良親王を奉し御父親房公と共に奥州へ向かわれ専ら其の地の鎮護に当られた。
然るにその2年後(建武2年)鎌倉にいた足利尊氏が天皇に叛し京に攻め上がったので顕家公は天皇の命を受けて奥州関東の大軍を率い長躯尊氏の後を追い之を討ち破り足利勢を九州へ敗走さす武勲を樹てられた。
京都を確保した後、顕家公は再び親王を奉して奥州へ戻られたが先に敗走した足利尊氏は九州で勢力を盛り返し又京都へ攻め上がって来た。
これを迎え討った楠正成は湊川で戦死し(1336)、尊氏は京都に侵攻したので、後醍醐天皇は神器を捧して吉野へ逃れられた。
所謂南北朝の始まりである。
吉野に遷都された天皇は再度顕家公の西上を促されたので、公は任地である奥州の霊山を出発し、鎌倉へ入り更に伊勢奈良へと進撃して来られた。
足利方の大将高師直の軍勢と摂津国で対戦、天王寺阿倍野に轉戦したが戦利あらず、次第に押されて出発時6萬を数えた軍勢も最後には公の身辺を護る者僅かに20数騎となり、志半ばにして遂に戦場の華と散られた。
時に御年21才、花将軍と謳われた悲運の貴公子であった。
公は若年ながら高邁な識見と鋭い政治批判力を持ち、その真価は戦死の直前、後醍醐天皇への「上奏文」に見事に発揮され、その堂々とした文章と卓見は後世高く評価されている。
当墓は「太平記」等の伝承により江戸期の学者並河誠所の提唱で享保年間(1729)建てられたものである。
  平成3年)1991)5月22日  北畠顕家公顕彰会



北畠顕家像
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