吉田の兼好法師は乱をさけて阿閇野の命帰丸が故郷に寄り、莚を織りて業を扶くるは『楚詞』に「六気を喰うて沆瀣を飲む。」と書かれ、 陸法師が、道徳を父とし神明を母とし大和を友とすれば自然の福を興す、といひしもこの兼好師の道徳にも比せんや
兼好の織られしむしろ今あらばむしろ目のある大判とそなる。


兼好古蹟(けんこうのこせき) 相伝ふ、阿部野にあり。天下茶屋村の里長日く、天下茶屋村の内、今の街道より二町ばかり東に丸山といふところあり。これその旧蹟なりとぞ。印に石の宝塔あり。
『扶桑隠逸伝』に日く、
兼好は卜部の兼顕が子、大織冠の苗裔なり。博覧にして、窺はざるといふ所無し。能く和語を綴り、巧みに和歌を作る。時に論じて、少し俳体有りと為す。かつて建治帝に仕へて、武術の次将と為る。正中元年、帝、升遐す。兼好すなはち髪を削りて修学院に入る。後に横川に上りて、深く影迹を匿す。兼好、尋常清貧なり。稚きより頓阿と善し。かつて、米および銭を頓阿に乞ふ。因て、折句の歌を以て意を見す。頓阿もまた、賑さず答ふるに、また歌を以て少しき銭を饋るのみ。その貧交想ひ見つべし。
兼好、清閑寺の道我と友たり。また毎に、高の師直が家に遊ぶ。皆和歌を以て交はる。一日、師直、兼好に託して艶簡を作らしむ。兼好すなはち書す。
その拘らざることかくのごとし。偶に月の望、夜来、月に乗じて千本の釈迦堂に詣づ。潜かに堂の後に入りて独り遺教経を聴く。美婦人有り。忽然として来りて、兼好が側に傍ふ。膏粉移るがごとく、蘭麝人を襲ふ。兼好すなはち席を避く。婦人慕ひ来る。兼好すなはち席を起ちて去る。蓋し官女の兼好を知る者、その節操を見んと欲して、相謀りてこれを為せり。嘗て心友の得難きことを論じて日く、独り灯下に坐して、書を読んで古人を友とす。楽しみここに過ぎたること莫し。好みて『文選』『自氏文集』老荘の書を読む。また、本期の古文を愛す。著はす所の『寂寞草』、往々己が志を示す。初め兼好童児有り。善く和歌を詠じて、かつ『万葉』『古今』の事を知る。兼好出家の後、今川了俊、これを招きて左右に侍せしむと云々。









兼好法師隠棲庵跡(けんこういんせいあんあと) 大阪市阿倍野区松虫通3-2-32 
正圓寺  参道




兼好の午睡さますな蝉時雨  俳人燦浪



兼好法師隠棲庵址の碑 



吉田兼好文学碑『徒然草』 清水公照書  昭和58年11月建之


HOME > 巻之二 東成郡
inserted by FC2 system