家隆郷墳(かりゅうきょうのつか) 勝鬘院の後にあり。地名を夕陽山といふ。
塚上に古松あり。旧棲松と呼ぶ。また側に夕陽庵あり。これを旧趾といふ。
  『夫木』 天王寺にてやまひかぎりになりにける最後の歌七首の中
   難波の海 雲井になして 詠むれば 遠くも見えず 弥陀の御国は     家隆
   契りあれば 難波の里に やどり来て 波の入日を をがみつるかな    同
この詠より地名を夕陽山といひけるにや。
また享保年中、安井御門跡大僧正道恕公の御撰の碑を、四十二世秋野坊法印盛順ここに建てられしなり。
その文に日く、
 従二位家隆卿の墓碣の銘並びに序
 それ、和歌は王者の徳なり。国風の始めなり。三才に通じ六義を分かつ。始めに素鵞八雲の神詠に託し、人麻呂・赤人二僊を祖宗とす。これより後、その道の英傑代々人乏しからず。その類を出でてその萃まれるを抜く。不群の思ひ、飄逸の詞、古今に独歩する者、それ惟公のみか。公の姓は藤原、諱は家隆。七朝に歴事し、従二位に叙し官を累ねて宮内卿に至る。その先は閑院左僕射冬嗣公に出でて、猫間黄門清隆卿を祖考とす。采を壬生に賜はり、公に逮びて食邑に相踵ぐ。ゆゑに壬生二位と号す。考は権中納言太宰権の帥光隆卿、[女比]は太皇太后宮権の亮実兼朝臣の女なり。公は寂蓮に従ひ、太夫入道釈阿の門に游ぶ。弟子の礼を執りて、毎に就きて和歌の奥旨を尋訳するにしかも直ちに古意を訪ねて必ずしも細を究めず。ゆゑに俊成恒に歎じて日く、意はざりき後生の能くここに至らんとは。その将に和歌を以て鳴らんとす。爾来の歌仙と謂ひつべし。元久二年春三月勅して『新古今和歌集』を撰ぶ。五輩の俊彦允とて喜選に当る。公その一に居す。数々後鳥羽上皇の呑眷注に遇ふ。時名定家と抗衡す。貞永元年冬定家卿旨を奉げて『新勅撰集』を奏す。集中家隆卿の和歌を采?すること最も多し。当時以て栄と為す。上皇頗る政事の暇に摂政良経公と国風の事を諭す。公奏請すらく、家隆は末代の人麻呂なり。上、この道を学ばんと欲せば宜しくその風体を師とすべし。これに依て賢声高く蜚び、鴻業日々に漸む。西行上人自ら三十六番和歌を詠みて、これを御裳濯川宮川歌合と曰ふ。俊成・定家を請ふてこれを判せしむ。縹[糸相](ひょうしょう)修飾の毎に自ら身に随へ、一日携へ来て公に授けて日く、精微の薀尽く斯の書に在り。円位往生自ら期するに瀕きに在り。後生歌を頒するに公のごとく得ぺけんや。我思ふ所有りて謹みて以て遺り奉つるなり。
松殿の僧正行意疾篤し、仮寝して忽ち夢に志賀山の毘沙門に詣す。一紳人行意の名を呼びて一首の歌を唱するを見る。琅誦の声心身を感盪す。驚き覚めて病すなはち癒ゆ。その歌は公建保年中九月十三夜内宴に侍して詠ずる所の河月の歌なり。その妙鬼神に通ずることかくの如し。音禎二年冬十二月病に嬰って官を罷めて落[髟木]し、自ら称して仏性と日ふ。年七十有九。浪速荒陵の北不食の地を択びて、人の緑を謝絶して迹を閑速に遁れて心を楽邦に游ばす。三年夏四月九日自ら七首の和歌を詠ず。
蓋し諸悔罪の意を取れり。詰旦に操浴して衣を更へ日想観に住す。酉の剋端坐合掌して真身迎接を睹るがごとく、安祥にして逝す。報齢八十歳。留めてその居に葬る。
植うるに松を以てし、歳寒の心に接す。人をして永く勿翦を懐はしむ。今を去ること四百有歳、遺趾猶存す。しかうして荊棘の穢す所、鞠ちて樵竪の区詞客の徒、徳音を翹慕し堅aに勒するに文を以てし、節祭を設くるに饌を以てし、後に廃すること勿からしめんと欲して辞を予に丐ふ。鳴呼予が不敏なる豈能く公の徳を紀するに足らんや。已むことを得ずつひに銘す。その詞に曰く、
  休いかな先達     萃を含み玄を休す   詞花の言葉
  一時の歌仙      元久勅を奉じて     撰集慎みて徽くす
  芳蘭藁を吐き     明錦機を脱す      上その忠を嘉みして
  寵費一に非ず     風に附し竜にたのむ  鴻猷賛[陟馬]す
  往古百代       作者孔た多し       今に迄んで聞くこと有るは
  それ能く幾何ぞや  荒陵の丘         君子の憩ふ所
  兆瑩蕪織す      流涕為すべきなり    その身既に致す
  斯の文末だ喪はれず 啓公の績や       万世弥々彰はる
  旨享保第六竜集重光赤奮若秋九月下澣
  史安井門主大僧正道恕撰拝書    東寺検校法務東大寺別当兼華厳宗長




家隆塚(かりゅうつか) 大阪市天王寺区夕陽丘町
鎌倉時代の歌人・藤原家隆(1158〜1237)が「夕陽庵」(せきようあん)を結んで晩年を過ごしたところ。
HOME > 巻之二 東成郡
inserted by FC2 system