○石華蓑(いしのとりゐ) 西門の外にあり。もとは衡門として木にて造れるなり。
そのとき紀貫之和歌を落書しけるなり。その後定家卿も和歌を落書したまふ。後にこれを文台に作りて宝庫に蔵む。その和歌二首。
  水やきの跡ははかなく残るともわすれず忍ぶ人やなからん     貫 之
  水ぐきの跡ははかなく成りにけりわすれず忍ぶ人はあれども    定 家



 衡門表題に日く「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」の十六字は、寺説に云ふ、皇太子の真蹟と云ふ。
あるが日く、小野道風の筆なり。また云ふ、弘法大師なりとも云ふ。いづれともその是非を知らず。按ずるに古代の体にして大師の筆威に似たり。
大師は大内裏の額を多く書きし人なれはさもあらんか。
 『拾玉』    神力品即是道場
  この国の難波の浦の大寺の額の銘こそまことなりけり        慈 鎮
 『元亨釈書』云ふ、
  釈の忍性、姓は伴氏、和州磯城島の人なり。永仁二年、勅を奉じて、天王寺の主務に管す。俸余を捨てて、悲敬の二院を益す。この寺、大門の外に衡門有り(俗に日く、鳥居)。鉅木宏村、歳久しくして朽頽す。性、新意を出だして、石を以てこれを新たにす。高さ二丈五尺。堅確、塋滑なり。国人目を拭ふと云々。
 この文のごとく石の華表は忍性上人の造立なり。伏見院御宇、永仁二年に勅をうけてこの寺の主務となり、大門の外の衡門鉅木宏材年久しく朽ちかたぷきけるを、上人石をもって造り改めらるるなり。忍性上人と申すは、大和国磯城島伴氏の子にして、十一歳の時信貴山に登り、十三にて薙髪し、十七の年東大寺の戒壇にのぼり、その後西大寺の興正菩薩の弟子と成り、戒律さかんなりし建長四年上人関東に趣きたまふ。この時最明寺時頼、光泉寺を造建し、武蔵守長時、極楽寺を建立ありて、上人を両寺の開山と崇敬せらる。それより都に登り天王寺に拝して太子四ヶ院の跡を慕ひて、所々に療病・悲田の二院を構へて、貧人・病者を救ひたまふ。鎌倉桑が谷にして二十年の間に四万六千八百人を恵みたまふとなり。北条相模守平時宗、上人の慈悲心を感じて、土佐国大忍の庄を永くその料に寄せられけるとぞ。すべてこの上人諸国において伽藍八十三箇所、塔二十基、大蔵経十四蔵、国々の橋百八十九作りたまひしとなり。山州宇治橋もその一つなりといへり。くはしきは『元亨釈書』明戒篇につまびらかなり。


石鳥居  明神鳥居という一般的なもの。
平安時代には既にあったことが知られ、永仁2年(1294)に石造となる。永正7年(1510)地震で倒れ、永正13年には復興。
柱心々7.42m、中央の高さ15m、柱経1.12m。


鳥居扁額   釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心  
嘉歴元年(1326)の銘があり、小野道風の書と伝えられる。鋳銅製110cmW×165cmH、225kg。実物は宝物館に保管されている。
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