坂松山一心寺高岳院(はんしょうさんいつしんじ) 茶臼山の北にあり。浄土宗鎮西派知恩院に属す。円光大師二十五箇の旧蹟その一つなり。
本尊阿弥陀仏 毘首羯摩天(びしゅかつまてん)の作。立像三尺。また方丈に善光寺の如来を模し、一光三尊の金像仏を安置す。
二階堂 本堂の南にあり。弥陀・釈迦の二尊、二十五菩薩を安ず。世人菩薩堂といふ。
三千仏堂 二階堂の奥にあり。五却思惟の弥陀および三千仏を安置す。
弥勒堂 三千堂の南にあり。
御影堂 弥陀堂の側、西向にあり。宗祖円光師の影像を安ず。世に横取御影と称す。毎歳正月下旬御忌法事あり。
大師廟所 御影堂の西にあり。祖師法然上人の廟なり。
駒繋松(こまつなぎのまつ) 当寺書院の庭にあり。大将軍国初の御時、茶臼山の御陣営に御成あらせられ、その砌ここに御駒を繋がせらる。株の太さ一尋半、高さ二丈ばかり。年歳累ぬるといへども君子の操をあらはし、霜雪を厭はず蒼々として千代の色を見せ、御代と共に万歳の声たえず
黒門 当寺の表門なり。御城玉造御門拝領。その時より黒色なり。
中門 本堂の東にあり。立像丈余、弥陀尊・廻向仏を安ず。
鎮守 愛宕権現、祠には将軍地蔵を安ず。一社、天照太神・春日明神・八幡宮を祀る。
古墳 本多出雲守忠朝(ただとも)墓。元和元年七日天王寺表にて戦死、法諱三光院殿岸誉良玄居士と号す。これ本多平八郎の舎弟なり。
次下に双ぶは忠朝家臣塔九基、いづれも戦死なり。小野勘解由塔・青山五左衛門塔・加藤忠左衛門塔・大屋作左衛門塔・山崎半右衛門塔・中根権兵衛塔・石川半弥塔・臼杵七兵衛塔・大原長五郎塔。
そもそも当寺は宗祖法然上人日想観を修したまふ霊場なり。文治元年の春天王寺の寺務慈鎮和尚、上人を招請ありて方四間の草庵を結び、新別所と号し勤修年あり。
しかるに後白河法皇天王寺の五智光院に行幸ありて行宮としたまひ、新別所に輦をとどめ上人相ともに日想観を修したまふ。
 『夫木』 
  阿弥陀仏といふより外は津の国のなにはのこともあしかりぬべし    法然上人       
  難波潟入りにし日をも詠むればよしあしともに南無阿弥陀仏       後白河法皇謹製
 これ上人の真筆にして難波名号といふ。星霜年を研んで、国都騒擾の時大いに頽廃す。慶長の初め、然蓮社本誉存岸上人ここに来って中興す。もとこの人は三州の産にして、関東修学の時、将軍家御取立て遊ばされ、下総国佐倉清光寺に住し、ただ隠遁の心深く檀林を辞し、円光大師の旧蹟を訪ねて当寺を再興し、一千日禁足、昼夜不臥の念仏を修し、一心帰命をもって寺号とせり。
同五月の秋、大将軍当院に入御したまひ、本誉上人勤修堅固なる事を賞嘆したまひ、造寺資縁の望を命ぜらるるといへども、境内不殺の外、さらに所望なしとなり。これによって殺生禁断の制書を賜ふ。山内の古松に御馬を繋がせられ、千歳の貞松と祝せられ、地名を相坂(そうさか)といへば、すなはちその席に有り合ふ障子の板面に尊翰を染めさせられ、坂松山と宝額を腸ふ。同年二月七日御幼息仙千代君早逝したまふ。
本号上人御焼市導師たり。法諱を高岳院殿と贈号し奉る。この院名を宝額に添へて賜ふ。
元和四年領主大政所高台院殿当寺に入御したまひ、制書を拝し黒印を副へ、御後見木下宮内少輔折紙を賜ふ(以上寺記)。
当寺書院の側遠州の三方明の数奇屋は、大坂御城中よりここに移さる。客殿縁側の杉戸は永徳の筆にして、表は梅に錦鶏、裏は芦雁なり。数奇垣の襖は狩野常信の山水、八島軍の屏風は山楽の筆。
什宝には第一に宝額、第二に難波名号、ならびに大師真・草・行の弥陀名号、両手口に筆を含みたまひて三行一時に書きたまへり。紺紙金泥にして左の方は左字なり。日の丸の名号は平清盛七回忌の時これを大師書したまふ。弥陀三尊仏は聖徳太子自画、同自影。六字名号は恵心僧都。鈴振如来も同作。香合の勢至菩薩は大師の守本尊。親鸞聖人像。張子弥陀。霊夢の如来。女人成仏の鉦。元祖『往生要集』。講嘆の御影、太夫隆信これを画く。大原問答の図は勝法坊の筆なり。諸宗高僧寄合書の弥陀経は将軍家よりの御寄附。日想観の図は土佐光茂これを画く。その外宝器・什物ここに略す。書院より西方を見わたせば、須摩浦・明石潟・淡路島山はるかにして、蒼海に夕陽を湛へ、二季春秋時正の日は、今において日想観修練の念仏怠慢なし。実に大師旧蹟の一員たるペし。



一心寺(いっしんじ) 大阪市天王寺区逢阪2-8-69
浄土宗 坂松山 高岳院 文治元年(1185)法然上人開基。 法然上人がこの地の四間四面の草庵「荒陵の新別所(あらはかのしんべっしょ)」で「日想観」を修せられた。草庵は法然上人の本名をとって「源空庵」と呼ばれ、その後「一心寺」へと改称。
1600年、関ヶ原の戦いがあった年、徳川家康公の第8男仙千代君が夭折し、一心寺で葬儀が営まれ、家康公と同郷三河の僧本誉存牟(ほんよぞんむ)上人が導師を務めた。以来、家康公との結びつきが強く、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では家康公の本陣が当地におかれる。 そして江戸時代末期からは年中無休で施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として賑わう。 明治20年にお骨佛が造立されてからは「お骨佛の寺」として親しまれた。


仁王門  1997年完成 高口恭行設計  
昭和20年の空襲で焼失した旧山門は大坂城玉造御門の移築と伝えられ、「黒門」とよばれていたことに因み、黒い門とした。

 
神戸峰男による仁王像 口を開いている阿形像は心の邪心を戒め、口を閉じた吽形像は世の乱れを睨んでいる。 

 
扉には秋野不矩の原画を神戸峰男が浮き彫りにして、インドから日本へと、少しずつ顔や姿を変化させています。


鐘楼


日想殿


本堂  本尊 :阿弥陀如来


納骨堂


骨仏  1851年に遺骨数万体を集めて阿弥陀仏を作り、1887年以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。


開山堂


本多忠朝の墓所
彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。
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