鳳林寺(ほうりんじ) 同所にあり。禅宗密洞最乗山と号す。開基才庵存芸和尚。本願は円明院殿華屋宗章大姉。
転法輪三条殿の女にして、北条十郎氏房の妻なり。当寺、天正十六年の開創なり。武州市川永福寺の末院、当津一派の僧録たり。
本尊釈尊 左薬師、右弥陀。仏殿に安す。また聖親音、長三尺、聖偲太子の御作。客殿に安す。
また什宝に宝珠二顆あり。干満と称す。円形五分ばかり。黄金の宝塔に蔵む。往昔将軍家上覧によって葵御紋の囊を拝領す。
また弘法大師の真経・兆殿司の十六羅漢の画橡あり。







鳳林寺( ほうりんじ ) 大阪市天王寺区六万体町2-10
曹洞宗永福寺末寺 最勝山 
当山は曹洞宗最乗山鳳林寺と称し、才菴存芸和尚の開基、天正16年(1588)に創建された。 はじめ武蔵国岩付に在り、芳林寺と書いたが天正の終り豊臣秀吉公よりこの地を賜り岩付より移った。 
元和元年(1615)徳川家康公より摂津一国僧録の朱印を授けられ、大本山永年寺より僧録状を受けた。 この頃当山の門前に鳳瑞あり、天下大平の吉兆とて寺号を鳳林護国寺と改められた。 寛永から元禄年間にかけて佛殿を中心とした七堂伽藍が建立されるとともに寛永6年(1629)僧録司に任ぜられ朝廷からは綸旨を賜り正徳4年(1714)には大本山永平寺より常恒会地という格式を与えられている。
爾来江戸時代200余年にわたり大坂城代の菩提寺として末寺十ヶ寺余を有し、畿内における曹洞宗第一の道場であった。
昭和20年3月の大阪大空襲で七堂伽藍全て焼失したが、昭和34年本堂、山門等を再建した。 なお境内には大坂城代米倉丹後守代々、同じく安倍摂津守代々、江戸期の俳人上島鬼貫、明治期大阪財界の重鎮松本重太郎等の墓碑がある。


山門 


一願不動明王 


印刀塚 昭和5年建立。 はんこの彫刀の供養塚。


本堂
当山は江戸時代寛永から元禄年間にかけて大坂城代米倉丹後守一族の帰依篤く、 総欅造りの佛殿を中心とした七堂伽藍が建立されていたが昭和20年3月の大阪大空襲により全て灰塵に帰した。 この佛殿のあったところに建っている現在の本堂は山門とともに、文久3年(1863)京都二條家の当主二條斉敬が関白太政大臣に任ぜられたとき叔父水戸烈公徳川斉昭の水戸家がこれを祝って 京都御所に隣接する地に建てた宸殿で「関白御殿」、「銅駝御殿」とよばれていたが昭和34年に譲り受け移築したものである。 15代将軍徳川慶喜は上洛すると従兄弟の二條斉敬を訪れこの御殿で休息し、会津の松平容保、土佐の山内容堂等と幕末の政情について階段したと伝えられている。


上島鬼貫墓(かみじまおにつら)  
貫墓は伊丹の人、寛文元年(1661)生。名は宗適、法名は僊林即翁居士。
延宝年間(1673~81)大坂に莱住し、芭蕉に先んじて「まことの外に俳諧なし」と開眼して多くの名句を残した。
  春の水 所どころに 見ゆるかな
  こひこふと いへど蛍が 飛んで行
  によっぽりと 秋の空なる 不尽の山
元文3年(1738)市内鰻谷で没した。




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