○宝殿(聖霊院の奥に有りて内陣とす。方四間五尺九寸。この一院は都卒内院を表して深秘の所謂あり。また外陣の東の方に善光寺の如来影向の間あり。弥陀三尊を安置せらる。またくろ駒の出地を現はして普賢像を安ず)太子四十九歳尊像(御自作を安置す。薨御の御年なり)
 『本願縁起』日く「この道場に来りて、もし一番一筆を奉げ恭敬供養し、もし一塵一塊をもつてこの場に抛げ入れ、遙かに寺の名を聞き速く見て拝恭せん。これ等の者、一浄土に緑を結ぱん」と云々。
 『拾玉』  すべらきの君までならぬ御子の跡は難波の事を思ひしれとや  慈 鎮
  同    難波沖に今を春辺と詠むれば西にひらけてさくやこの花       同
  同    十あまり七つのちかひせし人のあとふむみよをみるよしもがな   同
 推古天皇は女帝にてましませば、太子摂政の官に任じ万機の政をしろしめして、十七箇条の憲法(『日本紀』および『太子伝』に見ゆ)をあらはして末代の亀鑑となし、禹鑿(うさく)の手を垂れてほ池塘を営み水土ををさめ(『日本紀』に見ゆ)国郡の境をわかち民をして安からしめ、四箇院を構へては鰥寡(かんか)孤独を恵みたまふ。ことには智仁勇をもって、東夷を退け西戎を鎮め、守屋の強勢を砕きたまふ。礼楽を興し神儒仏の三遺鼎のごとく立てり。ひとり仏法興隆の祖とおもふは僻言なるべし。[シ番]岳(はんがく)が笙の賦に衛もその邪を措く所なし。鄭もその淫を容るる所なし。天下の和楽不易徳音なりと書きしは、この皇太子の仁声なるペし。


太子奥殿  昭和54年に新築落慶したもので、法隆寺夢殿を模し、八角円堂としている。
本尊:太子四十九歳像(聖徳太子摂政像)松久朋琳・宗琳作。1月22日のみ公開の秘仏を祀る。 基壇内には太子観音像が安置されている。
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