安倍野(あべの) 今阿部野と書す。天王寺南大門より住吉に到る遺なり。これいにしへの南海道なり。
『平治物語』云ふ、
去る程に十日の暁、六波羅の早馬、紀州熊野切目の宿に追ひ付きたり。清盛いかにと問ひたまへは、去んぬる九日の夜、三条殿へ夜討ち入りて御所みな焼き払ひ候ひぬ。少納言入道の宿所も焼き払はれ候。
これは右街門務殿、左馬頗義朝を相かたらひて当家を減ぼし奉らんとの謀とこそ承り侯へと申せば、清盛、急ぎ下向すべき(中略)熊野別当湛増に使を立てたまへば兵二十騎奉る。湯浅権頭宗重二十騎にて馳せ参れば、かれこれ百余騎に成りにけり。ここに悪源大義平二千余騎にて安倍野に待つと聞こえければ、清盛、この無勢にて大勢に遇ふて討たれん事無念なれ、まづこれより四国へわたり勢を催して後日に都へ人らはやと宣へば、重盛申されけるは、それも左にて候へども、事延引に成り候はば、定めて当家退治の由諸国へ院宜綸旨をなしたまふペし。かへつて朝敵と成りなん後は後悔すとも益あらじ。多勢をもつて無勢を討つ事は常の業なり、無勢をもつて多勢を亡ぼすは『六韜』の奥儀なるペし。しからば無勢なりとも馳せ向つて戦ひ、敗北せば即時に討死したらんこそ後代名も勝るべき。何とか恩ふ家貞と宜へは、筑後守、六波羅の御一門もさこそ覚束なくおばすらん、急がせたまへと申せば、清盛もしかるべしとて、都をさして引き返す。(中略)さても悪源太が阿倍野に待つといふはいかにと問ひたまへは、その義はかつて候はず、伊勢国伊東の兵共こそ都へ入らせ候はば御供仕らんと三百余騎にて待ち参らせ候ひつれと申せば、さては悪源太にてはあらずしてよき味方ござんなれ。うてやものどもとて、みな色を直して我さきにとすすみき。(下略)













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