長宝寺(ちょうほうじ) 平野郷西脇町にあり。真言宗王舎山と号す。女僧寺なり。
本尊十一面観音 春日の作、長二尺ばかり。
田村堂 田村将軍の像を安ず。長六寸ばかり。
当寺は大同年中の草創にて本尊は坂上田村麿の守木尊なり。
開基慈心太姉は田村将軍の息女、桓武帝の皇后、葛井親王の御母なり。
天臭崩じたまふ後、御錺を下し弘法大師の宗意に基き当寺にあり。
塔頭、阿弥陀院・勢至院・来迎院などありてこれを守りける所、寺中の比丘尼慶心坊夢の中に不動明王の導にて冥途に至り、閻魔王の証印を授かりて蘇生し、また嘉吉元年十一月十五日、本堂にて青蜘蛛掌中に入ると覚えて、ひらき見ればたちまち舎利と化し光を放り。
またその 翌年千部の経読誦の時、客僧一人来り、焔魔王の像を一日に作り消え失せぬ。これより世に仏師堂といふ。
当寺奇瑞の事どもを天王寺東僧坊政恵法印書かれしを『よみがへり草紙』とて今に流布し侍る。





長寶寺(ちょうほうじ) 大阪市平野区平野本町3-4-23
高野山真言宗 王舎山 長生院  後醍醐天皇行在所跡
摂津国八十八ケ所 第三十八番霊場
王舎山長生院 長寶寺の文化財
当寺は、平安時代(806辛0)に桓武天皇の妃となった坂上田村麻呂の娘春子が、天皇の崩御後、兄の広野麻呂の居る平野に来て落飾、慈心大姉と号し、天皇の廟所として禁輪寺、坂上氏の氏寺として本寺を開基。
以後代々坂上氏の女子が比丘尼として法灯を継いできました。
寺伝では南北朝時代、後醍醐天皇が皇居を吉野に移される時、当寺を仮皇居とされ、熊野権現社に扁額を賜ったという。
本寺の絹本着色「仏涅槃図」は釈迦入寂の様子を描いたもので、鎌倉時代の名品の一つです。
銅鐘は建久3年(1192)の銘を有し、京都東山の金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘の一つに数えられています。ともに国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。
他に「長宝寺縁起」「よみがえりの草紙」「逆修講縁起」があり、毎年5月18日には秘仏の十一面観音像・閻魔王像が開帳され、「えんま王の御判」を押捺する法会があります。
杭全神社との由縁から、毎年7月14日の夏祭りには「みこし渡御」の神事が行われています。



本堂 本尊:十一面観音


密祖堂(大師堂) 弘法大師
境内にあった田村堂の田村麿像を明治15年(1882)神仏分離令のため、杭全神社に移し、かわりに同社にあった弘法大師像を移した。

護摩堂 弘法大師 不動明王 役行者


鐘楼




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