坂上家(さかのへのいえ) 同郷長宝寺の北にあり。
征夷将軍坂上田村麻呂の長男広野麿、嵯峨帝の御宇、当杭全郷を賜はり居住し地名も広野と号す。
後世転じて平野郷とぞ呼びにける。その苗孫ここに永く相続して世に平野殿といふ。
この家に女手あれは比丘尼とし、長宝寺の寺職とす。
また坂上の支族この地にあり。これを七名家と呼ぶ。今、土橋・末吾・三上・辻花等存在せり。
例年六月晦日、往昔大祓にこの七名家の内、その年の頭屋より児一人花笠を着て馬下にて出づる。これ旧例なり。
また当郷野堂町に三十歩神社あり。住吉の末社なれば前に見えたり。ここに略しぬ。





坂上廣野麿屋敷跡(さかのうえひろのまろやしきあと) 大阪市平野区平野本町3-4
平安朝の初期、坂上田村麿の第二子廣野麿この地を朝廷より賜り、その子孫永く当地を支配し、
世人から平野殿を称されて代々ここに屋敷を構えた。        昭和58年5月1日 平野戸主会






HOME > 巻之一 住吉郡



inserted by FC2 system