大伴金村塚(おほとものかなむらのつか) 同所にあり。土人この両塚を帝塚山(ていづかやま)といふ。
また手支山(てづかやま)とも呼んで、諺に、むかし住吉神と聖徳太子と地を争ひたまふて、ここにて手をつかへ領地を定めたまふたりとぞ。 これ妄談にして取るに足らず。この所一堆の岡山にして、西は滄溟渺々(そうめいびょうびょう)とし、南は岸姫松・住吉の社頭、北は天王寺の嶫々たる梵刹連なり、東は阿部野の隴々たる風景炳然し。称生れ頃は近隣ここに来って游宴の地とす。鷲住の旧蹟は住吉の下にあり。金村の旧宅は、堺北荘高州浜の東なり。この人詔をうけて真鳥を滅ぼし、武烈帝崩じて皇嗣なし。大跡王を趣前国三国より迎へて皇胤を立つ。欽明帝元年退いて住吉の第に居す。金村の子大伴狭彦は詔を承けて兵士数万を将ゐて高麗を攻むる。つひに国中を乎治して大いに功あり


帝塚山古墳(てづかやまこふん) 大阪市住吉区帝塚山西2-8
大阪市域で全形のわかる唯一の前方後円墳。昭和38年(1963)に国指定史跡となる。


全長91m、後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じで約56m、前方部の高さ約7.6m、後円部の高さ約9mの二段築成の古墳である。
墳丘には円簡埴輪や葺石が認められ、後円部の北東には、周濠跡とおもわれる池が存在していた。


大正~昭和初期の帝塚山古墳


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