熊野三所権現(くまのさんしょごんげん) 同所(平野郷)に鎮座。側に若一王千・八王子を祭る。毎歳三月三日法会あり。
観音堂 もと修楽寺本尊なり。後世ここに安置す。
大師堂 弘法大師の像を安ず。
行者堂 観音堂の傍にあり。
多宝塔 阿弥陀如来を安置す。
末社 天照大神・天満宮を祭る。その外、連歌所・神楽殿・能舞台・絵馬舎・鐘堂等あり。
影向松 門外の東にあり。
弁財天祠 影向松の傍にあり。
鳥居の額 後醍醐天皇の宸筆。熊野三所権現と書す。
社記白く、住吉郡平野郷は、むかし杭全庄といひしを、嗟蛾帝の御時、坂上広野麻呂に腸はりて裔孫永くここに住居し、いつとなく広野を所の名によび後世に転じて平野といふなり。牛頭天王は貞観年中京帥祇園より古松に影向したまふ。それより地主神として崇め奉り影向松とは名付けたり。しかつよりこのかたこの邑坂上七名の長、当社を掌り、神宮寺六坊を建立し、弘法大師の法流を伝へて両部習合の神祀を修し、毎年六月九月祭礼をけひ待りぬ。この郷の野堂町に薬師堂あり。全興寺と号す。聖徳王の草創にて本尊も御自作なり。野堂とは初め野中にありしより口称し侍る。天王の本地仏薬師なれば、世人奥院と称しける。
熊野三所證誠澱大権現社は、御鳥羽院御字、建久元年三月三日、一人の山伏笈を負ひ来リ、社僧に勧請のよしを告ぐる。社僧これを肯はざれは、当社四、五町坤の方一木の松ありしかは、ここに笈をかけ置き去りぬ。その夜今の社地にこの松より光を放ちけり。笠掛松今にあり。また社内に椰三本一夜に生じ、烏三羽飛び来る。ゆゑに椰を神木と崇む。その時人々奇異の思ひをなし、かの笈を開き見るに微妙端厳の尊容まします。すなはも熊野三所権現と崇め、社を営み、例年三月三日例祭を勤む。かの山伏は役小角の化現なりとて今行者堂に崇め奉る。後醍醐帝元亨元年、当社の来由を叡聞あらせられ、鳥居の額、熊野三所権現と書し宸翰を賜ふ。また当社の東五、六町鹿内といふ所にむかし巍々たる堂舎あり。これを普光山修楽寺といふ。年経て荒廃に及びしを、やうやく観音堂一宇・寺僧六坊遺れり。応永三年、今の所にうつし、大悲の尊像を崇め、六坊も今に相続して十二坊と成り、それより近隣十三村尊信厚く、霊験窮りなく日々に新たなり。





杭全神社(くまたじんじゃ) 大阪市平野区平野宮町2-1-67
9世紀、平安時代初め、平野郷の守護神として第一殿が奉祀されたのが、当社のはじまりである。
その後、12世紀に第三殿が、14世紀に後醍醐天皇の勅命により、第二殿が勧請せられ、ここに現在の三社の規模ができた。
古くは祇園社、熊野権現社と称せられたが、明治3年杭全神社と改称し、昭和5年府社に列せられた。
当社は古来、朝野の崇敬厚く、特に中世、平野郷が堺と並んで栄えた頃は、社運隆盛を極めた。
大門は鎌倉時代の建物、第一殿は奈良春日大社本殿を正徳元年(1711)に移建したもの(重要文化財)であるが、第二殿・第三とのは永正10年(1513)造営の記録があり、現在大阪市内最古の建造物で重要文化財に指定されている。          平野区役所


大門


拝殿


中門


第一本殿 祭神:素戔鳴尊


第二本殿 祭神:伊弉諾尊・速玉男尊・事解男尊


第三本殿 証誠殿 祭神:伊弉冊尊


田村社  元の大師堂で、神仏分離で長寶寺の田村堂に祀られた田村麻呂を移す。 


宇賀神社  境内摂社


連歌所
「杭全神社連歌所記」によれば、当社の連歌は鎌倉時代に始まり、坂上家の後裔と称する平野七名家を中心として室町時代に盛んになったという。 中世以来の連歌所は慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際に破却され、現在の連歌所は宝永5年(1708)に再建されたもの。
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