牀菜庵古蹟(しようさんあんのこせき) 住吉坂之井の村中にあり。かつて紫野一休和尚ここにしばらく仮居Lたまふ。今庵宅荒廃す。什宝一休自筆の軸物数品、または後小松院の神牌等、庵の門前大海神の社人大領氏、この古蹟の抱所なればここに蔵む。伝へ云ふ、一休和尚は後小松帝の落胤なればこの尊脾を安ず。その軸の物二、三をここに伝写す。
○言外和尚像譖
  無端減却大灯家 端無く滅却す大灯の家
  鉄眼銅疇剣樹牙 鋏眼銅暗剣樹の牙
  一句分明言外語 一句分明たり言外の語
  親聞草叟若華 親しく華叟に聞く曇華の若しと
   右一休子宗純謹拝して譖す
○虚堂和尚像譖
  育王住院世皆乖 膏王の住院世皆乖く
  放下法衣如破鞋 法衣を放下すること破鞋の如し
  臨済正伝無一点 臨済の正伝一点無し
  一天風月溝吟懐 一天の風月吟懐に満つ
   右天沢七世東海の児孫一休宗純譖す
○華聖和尚傑譖
  霊山孫言外的伝 霊山の孫の言は外に伝はる
  蜜潰茘攴五十年 蜜に茘攴を漬けること五十年
  児孫有箇瞎禿漢 児孫箇より瞎禿漢有り
  頤得癲児牽伴禅 癲児を頤ひ得たり牽伴の禅
    大機弘宗禅師畢叟大和尚の頂相。虚堂七世、東海の一休宗純謹拝して譖す
○霊山和尚像譖す
  大燈子大応孫 大燈の子大応の孫
  正伝臨済宗門 正しく伝ふ臨済の宗門
  儼然霊山一会 儼然たり霊山の一会
  何妨三界独尊 何んぞ妨げん三界に独尊するを
   右一休子宗純敬拝して譖す
○臨済和尚譖
  喝々々々々 喝々々々々
  当機得殺活 機に当って殺活を得
  悪魔鬼眼晴 悪魔鬼限晴る
  明々如日月 明々として日月の如し
天沢七位、東海の純一休拝す
○木応国師像譖
  看々仏日照乾坤 着々たり仏日乾坤を照らす
  天上人間唯独尊 天上、人間に唯だ独尊す
  禅老如無渡東海 禅老もし東海を渡る無んば
  扶桑国事暗昏々 扶桑因裏暗くして昏々
    右前住の大行一休謹んで譖す
〇達麿譖
  東土西天空弄神 東上西天空しく神を弄す
  半身形像現全力 半身の形像全力を現ず
  少林草座成何事 少林の草座何事を成す
  香至王宮梅柳春 香は至る王宮梅柳の春
    前の竜宝山大徳禅寺純一休天下老和尚謾題
〇一休和尚像自潜
  詩情禅味惧無能 詩情禅味倶に無能
  電宝山中滅大灯 竜宝山中大灯を滅す
  石女艶歌欺恕子 盲女の艶歌楼手を欺く
  虚堂七世蠚苴僧 虚堂七世蠚苴の僧
  諸徒余の陋質を図り譖を請ふ。自許を免れず
 文明六年閏五月日
 天沢七世東海の純一休天下老和尚印




一休禅師牀菜庵跡(いっきゅうぜんじ しょうさいあん) 大阪市住吉区上住吉2-6 上住吉公園
一休和尚(1394~1481)が、晩年仮棲したところ。  
一休は後小松天皇の落胤と伝え、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺など移り住んだ。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。一休は文明10年(1478)には京都田辺酬恩庵へと去った。庵跡は明治初年まで、それらしき門跡や竹やぶが残っていたという。








HOME > 巻之一 住吉郡



inserted by FC2 system