法楽寺(ほうらくじ) 南田辺村にあり。宗旨四宗兼学、京師泉涌寺に属す。紫金山小松院と号す。黄檗悦山筆の額には紫雲山と書す。
本尊如意輪観音 源頼朝公念持仏、背面銘に云く「左馬頭源義朝一刀三礼、久安二年丙寅二月十八日、法眼湛幸作之」。
仏舎利 二顆宝塔に安ず。伝へ云ふ、小松内大臣平重盛公懇志によつて宋田より贈る所なり。
委しきは寺記に見えたり。また舎利記の跋に云ふ。
育王請来の舎利 二顆、紫、黄二色。
舎利水晶の壺および外囲鍮金五輪の塔に貯へて舎利檀に安ず。舎利の檀上に蜀錦の坐囲を設く。併せて檀下に雑繍の坐囲を布く。舎利塔上に小袈裟を施す。下略、治承二年己亥七月日。
釈迦仏 方丈に安ず。弘法大師作。初めは東湖安養寺村安養寺の退雲閣にありしを、中古当寺に還す。
十一面観音 方丈に安ず。西明寺入道時頼の作。今歓喜天の本地仏と称す。
鎮守 秋葉権現を祭る。
寺記に云ふ、
当山は治承二年小松内府重盛公開創の地なり。その頃内府仏道に淫し一門菩提の為として、宋国育王仏照国師の英風を慕ひ、祠堂料として黄金三千両を贈る。国師その厚志を感じて仏舎利二顆を献ず。すなはちこの地に仏字を建てて、内府熊野参詣の時ここに立ち寄りて落成し、殿堂壮麗にして巍々たり。天正の兵火に罹りて灰爐となる。今門前に大門池といふあり。いにしへの大門の跡なり。舎利田といふは内府重盛仏供に寄附せられし田園なり。今字となる。法楽寺・小松院の両額は宝鏡寺宮理豊徳巌尼公の御筆。梵鐘の銘は東湖湛堂律師の撰なり。当寺の由致を著す。方丈・書院・惣門は和州宇陀城より移し、三間の書院の鏡板は唐桑の一枚板なり。そもそも内府公中華育王山へ黄金を渡されし事、古来より種々の説あり。実録には見え侍らず。伝へ云ふ、黄金を渡されし報酬として石鐫の阿弥陀経を日本へ贈る。今筑前博多宗像神の社頭にあり。またその写しの石経京師知恩寺にあり。一心不乱の巳下二十一字を補益ありしとぞ云ひ伝へ侍る。 『武家俗説弁』云ふ「小松内府重盛仏法を信じ、妙典といふ唐人日本に来り筑紫にありしを呼びむかへ、千二百両の金を渡して云く、二百両は医王山へ納めて、ひとへに重盛が後生菩提を弔ふペし。千両の金は時の天子へ献ずべしとて、妙典には別に金百両をあたへて異国へ帰したまひぬ。これによって医王山に一字を建立して深く重盛の菩提を弔ひ、時の天子も叡感有りで、勅書を贈りしといふ事、世の俗談のみにあらす、『盛衰記』に載せたり。つらつら重盛一生の行状を考ふるに、仁義をもはらとして諸人に仁愛か施し、善を勧め悪をこらし、身の行跡を昼夜にあらためたる中興の君子なり。ゆゑに父清盛の悪行なも諷諫したまへり。しかしながら仏法を信じたる事正史に見えず。一歳重盛重病に犯され医術手をつくすといへども及ぼす。折節異国の名医日本に来り仕せしかば、父入道この医をして薬を服せしめんとすすむ。重盛かつてこれを用ひず。我が朝に名医なきによつて異邦の医師の薬を用ひて恥を外国に伝へんやとてその薬を服せず。この行ひをもつて重盛の心中を察するに、我が菩提を祈らんが為に、あに黄金を医王山へ送らんや。すでに異域の医師を用ひざるの一つをもつてこれをしるベし」と云々。かうやうなる説もあればいづれか是なるや、非たるや、後の俊才これを明らむべきなり。





法楽寺(ほうらくじ) 大阪市東住吉区山坂1-18-30
真言宗泉涌寺派 別格本山 紫金山 小松院 通称:田辺 不動尊
治承2年(1178)平重盛の開基。 元亀2年(1571)小名信長の河内攻めで焼失。 宝永8年(1711)洪善和尚が33年の歳月をかけて本堂を再建。


昭和53年に発見された「絹本着色不動明王二童子像」(重要文化財)は玄朝の作で、青蓮院の青不動の原図といわれる。


三重塔  1996年新築。大日如来・不動明王・愛染明王を祀る。


本堂 本尊:観音菩薩


観世音菩薩


大師堂


鎮守:秋葉権現


不動尊


楠大明神 かつては重盛お手植松という巨樹があったという。樹齢800年のクスノキ


鐘楼



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