戦国時代平野郷の周囲には自衛上堀がめぐらされ13カ所の方面に通じた直路の出入り口には門と地蔵堂があった。 現存の樋尻口地蔵堂もその一つである。 昭和41年3月 大阪市建立 |
戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。 濠のあいだには大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。 樋尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。 門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、当公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。 郷から外に出るときは一身の籠を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。 少し東方の平野川に「樋之尻橋」の名がとどめられている。 平野区役所 |
中世、堺とともに自治都市として栄えた平野郷は、戦国時代には自治と自衛のため、濠と土塁をめぐらした、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもっていた。いま杭全神社の東北部と、赤留比売命神社の背後にその面影を残している。
濠のあいだには大小13の木戸口があり、摂河泉方面へ道路が放射状に延びていた。 樋ノ尻口門は奈良街道や久宝寺、八尾につらなるmので、木戸としては大きい方であった。 門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。 この地蔵堂も樋ノ尻口門の傍らにあったもので、郷から外へ出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。 |
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