大源山諸仏護念院と号し、俗に亀鉦寺とも称する。 融通念仏宗の総本山である。 当寺のはじめは、坂上氏の菩提所修楽寺の別院であったが、大治2年(1127)開祖聖応大師(良忍上人)が鳥羽上皇の勅願によって新しく一寺を建立したものである。 第7世法明上人は大いに寺門を興したが、千早赤阪の戦・大阪の陣等の兵火に遇い堂宇・什宝等を失った。 その後、第36世道和上人がこれを再興し、第43世舜空上人は願を発して寛文7年(1667)方20間の大堂を建立した。 さらに、元禄年間地元徳田家より第46世大通上人が出るに及んで、諸堂を建立し什宝を整備し、一山の法儀用具を完備し輪奐の美を極めるに至った。 しかし、明治31年出火し、大堂以下多数の堂宇を失い、現在の大堂は昭和13年第59世戒全大僧正のとき竣工したものである。 文化財としては、国宝「毛詩鄭箋残巻」・重要文化財「融通念仏縁起」等が保存されている。 平野区役所 |
宝永3年(1706)、第46世法主大通上人の建立による。 棟行2間(3.6m)、梁行9尺(2.7m)両脇に7尺(2.1m)の壁落ち屋根を付けている。 「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆である。 明治34年、平成15年の両度、大修理を施した。 大通上人はこの門を融通無碍門(ゆうずうむげもん)と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを超えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげていくという融通念仏の功徳を称揚した。 門、扁額、棟札の3点が大阪市の有形文化財に指定されている。 |
昭和13年に竣工した総檜造り胴板葺きで、棟行(南北)39.1m、梁行(東西)49.8mの大阪府下最大の木造建築である。平成15年文化庁登録文化財指定。
堂内には、正面客殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、その両脇に岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之介作の多聞天王、八幡大士の極彩色の木造が立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。 また左右余間に再興大通上人の椅像(椅子に腰をかけ、両足を前に揃えた像)と、旧本堂(寛文7年 1667 建立 明治31年焼失)の建立願主舜空上人の木造を安置している。 外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治36年に再製したもので、約千二百顆の欅材からできており、一つ一つの球に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている。 百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。 |
元禄6年(1693)、第46世再興大通上人の創建平成元年修復。 2間四方で前面に1間。後方に2間の庇を付けている。 本尊は木造聖観音立像で、像高5尺5寸あり、傳教大師作と伝え、優雅な表情をたたえている。 堂の両袖に、左棟行5間、梁行2間、右棟行4間、梁行2間の霊牌安置所を設けている。 ここには大通上人以降、篤信者に施入を募った日月祠堂位牌が祀られている。 額面「圓通殿」の3文字は大通上人の揮毫である。 |
元禄年間(1688~1703)、第46世大通上人の創建。堂(3間半四面)の中心に経箱を置き、回転させる構造になっている。 これは転法輪(教えを説くこと)を意味し、経の功徳が普く行きわたることを願ったものである。 現在は「なにわ七幸」の霊場として良忍上人像を安置している。 |
奥(東側)に4間4面、手前(西側)に棟行5間、梁行3間の2つの堂を合せ持つ建物で、天治2年(1125)、元祖聖應大師(良忍上人)の創建と伝える。 現在の堂は寛政11年(1799),第49世堯海上人の再建である。 中央厨子の本尊毘沙門天は行基菩薩作と伝えるが不詳。両足で邪鬼を踏み、右手に撃、左手に巻子(神名帳?)を持つ躍動感あふれる等身大の木像である。 毘沙門天は仏法守護の四天王の一つで、多聞天とも称する。 良忍上人は永久5年(1117)、阿弥陀仏から、人々が口に念仏を称えることにより、その念仏が相互に融け合い、現世に智慧輝き幸あふれる仏国土が現出するという融通念仏の教えを授与されてのち、洛北鞍馬寺の多聞天王の冥助によって、宮中をはじめ広く諸国にこの念仏を勧めて歩かれた。 また鞍馬寺の多聞天王は、梵天、帝釈、四天王、天神地祇、日本国内の八百万神にも融通念仏を勧めて、日課念仏百遍の誓約をなさしめ、「神名帳」を良忍上人に授けられた。ゆえに本宗では特に語法神として尊重する。 また阿弥陀如来像、地蔵菩薩半跏像を安置し、両脇壇には十六羅漢、閻魔十王像を合祀している。 |
正門 | 霊明殿 |
正門、回廊、奉安所、修法堂から成る。 創建は保元元年(1156)、第3世明應上人のときと伝える。 良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の零牌と御真影を祀るために建てられた。 その後、寛永年中(1624~1643)。第38世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造の社殿を再建した。それ以後ここを「権現さま」「お宮」と称した。 家康公は大坂冬の陣(慶長19年 1614)、夏の陣(元和元年 1615)において、第36世道和上人に帰依し、治国の要を教わり、国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。 さらに両度の戦役で被災した大念仏寺を、天海僧正立ち合いのもと、青銅五百貫文を弁済し、庫裡を再建し、御回在念仏勧進の許可を与えるなど融通念仏の弘通に貢献した。 今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年頃火災で焼失し、その後、北花田、澤池正信氏と柄谷善弘氏の寄進により昭和5年に旧形のまま建て替えられた。 平成20年、大修理を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は融通念仏勧進帳の序文(重文)をしたため、広く念仏を弘められた方である。 |
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