大源山諸仏護念院大念仏寺(たいげんざんしよぶつごねんいんだいねんぶつじ)) 平野郷にあり。融通大念仏宗本寺。
本尊天得如来 永久五年丁酉五月十五日、大原良忍上人感得の十一噂曼荼羅なり。脇士、左地蔵・右毘沙門。
脇壇、開山良忍上人像・中祖法明上人像・将軍家御代々神牌・融通無碍塔・当寺代々牌・常念仏開闢舜空上人像。
不退場 本堂の異にあり。阿弥陀仏を安ず。
斎堂 文殊を安ず。
観音堂 本堂の艮にあり。額、円通殿。
転輪蔵 本堂の左にあり。一切経を蔵む。
鎮守 八幡宮を祭る。本堂の北にあり。
累世塔 開山良忍上人より当寺四十七世忍通上人までの廟塔なり。
石表 門前にあり。鐫に日く「公府令旨、酒肉五幸、円内に入るを許さず」云々。
当山『両祖絵詞伝』に日く、良忍上人は、もと尾張国知多郡富田庄秦道武の子にして母は熱田の神職の女なり。後三条院延久四年壬子の元日に誕し、十二歳の春、叡嶽都卒谷恵心院良賀法印の許にて経史を学び、薙髪して本覚坊良忍とぞ名づく。東塔の西谷無動寺へ一千日詣し、隠遁の心行を祈り、二十三歳の秋本意のごとく大原の奥にかくれたまひ、かくなん詠じたまひける。
  のがれてもえこそゆるさね世のlうきをいとひきてすむ大原のおく  良 忍
「剛敬世人知住処、更移茅舎入深居」といふ古語を思ひ出でて
  たれ人かよもたづねこん鳥だにも声せで深き谷に入る身は     同
かくて、鳥羽院承久五年五月十五日上人四十六歳時、弥陀仏融通念仏の弘法末世の衆生に勧誘せん事を霊告したまふ。そもそも融通念仏とは一人の行をもって衆人の行とし衆人の行をもつて一人の行とするがゆゑに功徳広大なり。これ往生の順次なるべし。 一人往生を遂げは衆人もまた往生を遂げん事疑ひあるペからずと、空中より一仏十聖衆の羅穀の旗を授与したまふ。これ当寺の本尊なり。一日異人来謁して日く、願はくは融通念仏を四海に弘めたまへ。われもまた天神地祇を倡せん。良忍問ふて日く、公は誰そや。対へて云ふ、鞍馬寺毘沙門天なりと。籍を呈して見えず。これより融通念仏を修し、声明梵唄を闢き、四衆を勧む。天仁二年に大原来迎院を創し大蔵経律諭を 庋いて名づけて如来蔵といふ。持する所の弥陀経、時々光を放つ(『元亨釈再』大意)。
鳥羽帝も日課を修し、菅神もまた三千遍の日課を授かり、その示現の文に日く、
 天神本地の身 十二面薩陲 衆生を度するが為のゆゑに 天神の体を示現す 我が木師弥陀 報恩の為に頂載す 毎日名号を称ふ 一百八遍に満つ この念仏のゆゑを以って ことごとく汝に授与す 汝の行三千遍 また我に授与す 融通功徳の力 甚だ探しまた甚だ探し 如是修行者 決生極楽に生ず
良忍上人つひに長承元年二月朔日入寂(年六十一)。近年安永二年十月十六日、勅して聖応大師と贈号あり。中祖法明上人は清原右京亮守道の子なり。弘安二年十月十日に生まれ、二十五歳の歳、故郷を出でける時かくなん、
  世の中のうきはみのりのしるペかなはむらの宿を今や出でけん   法 明
この一首を壁に書いて高野山に登り得度し、当山の本尊は良忍上人八幡宮にをさめ置きたまふを、法明上人神託によつて、河州交野郡茄子作村においてこれを授かりたまふ。これによつて毎年霜月十六日、茄子作にて仏事供養ありとかや。かの示現によつて融通念仏の宗凪を再興し、その上播州加古の教信の告もあれは、いよいよ大念仏宗をここに弘通し、つひに貞和五年六月十三日入寂(年七十歳)。
毎年二月に和州富野の華供養執行の時、当国西成部浜村源光寺より鏡餈を当寺の本題に供す。当寺よりまた末広扇一本、苧二束、鏡餈に添へて高野山子守勝手明神ならびに蔵王堂に備へ、終はつて後、天台の一﨟これを受けて一山に配当す。これを吉野の餅配とて例式なり。また三月子守勝手の神事、当寺より役仕あり。彼岸の時正日春秋ともに毎歳四天王寺において融通大念仏会執行の時、吉野山より当寺上人供奉の役仕あり。これを太郎といふ。これみな融通念仏の祖より伝ふる流例とぞしられける。
亀鐘(かめがね) 当寺の什宝なり。往昔鼇の頭に戴き海中よ。浮かむ。法明上人より代々伝来し世に亀鐘寺といふ。





大念仏寺(だいねんぶつじ) 大阪市平野区平野上町1-7
融通念仏宗総本山 諸仏護念院大源山
大源山諸仏護念院と号し、俗に亀鉦寺とも称する。
融通念仏宗の総本山である。
当寺のはじめは、坂上氏の菩提所修楽寺の別院であったが、大治2年(1127)開祖聖応大師(良忍上人)が鳥羽上皇の勅願によって新しく一寺を建立したものである。
第7世法明上人は大いに寺門を興したが、千早赤阪の戦・大阪の陣等の兵火に遇い堂宇・什宝等を失った。
その後、第36世道和上人がこれを再興し、第43世舜空上人は願を発して寛文7年(1667)方20間の大堂を建立した。
さらに、元禄年間地元徳田家より第46世大通上人が出るに及んで、諸堂を建立し什宝を整備し、一山の法儀用具を完備し輪奐の美を極めるに至った。
しかし、明治31年出火し、大堂以下多数の堂宇を失い、現在の大堂は昭和13年第59世戒全大僧正のとき竣工したものである。
文化財としては、国宝「毛詩鄭箋残巻」・重要文化財「融通念仏縁起」等が保存されている。    平野区役所


山門
宝永3年(1706)、第46世法主大通上人の建立による。
棟行2間(3.6m)、梁行9尺(2.7m)両脇に7尺(2.1m)の壁落ち屋根を付けている。
「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆である。
明治34年、平成15年の両度、大修理を施した。
大通上人はこの門を融通無碍門(ゆうずうむげもん)と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを超えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげていくという融通念仏の功徳を称揚した。
門、扁額、棟札の3点が大阪市の有形文化財に指定されている。


本堂 本尊:十一尊天得如来
昭和13年に竣工した総檜造り胴板葺きで、棟行(南北)39.1m、梁行(東西)49.8mの大阪府下最大の木造建築である。平成15年文化庁登録文化財指定。 堂内には、正面客殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、その両脇に岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之介作の多聞天王、八幡大士の極彩色の木造が立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。
また左右余間に再興大通上人の椅像(椅子に腰をかけ、両足を前に揃えた像)と、旧本堂(寛文7年 1667 建立 明治31年焼失)の建立願主舜空上人の木造を安置している。
外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治36年に再製したもので、約千二百顆の欅材からできており、一つ一つの球に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている。
百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。


圓通殿(観音堂)
元禄6年(1693)、第46世再興大通上人の創建平成元年修復。
2間四方で前面に1間。後方に2間の庇を付けている。
本尊は木造聖観音立像で、像高5尺5寸あり、傳教大師作と伝え、優雅な表情をたたえている。
堂の両袖に、左棟行5間、梁行2間、右棟行4間、梁行2間の霊牌安置所を設けている。
ここには大通上人以降、篤信者に施入を募った日月祠堂位牌が祀られている。
額面「圓通殿」の3文字は大通上人の揮毫である。


経堂(転輪蔵)
元禄年間(1688~1703)、第46世大通上人の創建。堂(3間半四面)の中心に経箱を置き、回転させる構造になっている。
これは転法輪(教えを説くこと)を意味し、経の功徳が普く行きわたることを願ったものである。
現在は「なにわ七幸」の霊場として良忍上人像を安置している。


毘沙門堂
奥(東側)に4間4面、手前(西側)に棟行5間、梁行3間の2つの堂を合せ持つ建物で、天治2年(1125)、元祖聖應大師(良忍上人)の創建と伝える。
現在の堂は寛政11年(1799),第49世堯海上人の再建である。
中央厨子の本尊毘沙門天は行基菩薩作と伝えるが不詳。両足で邪鬼を踏み、右手に撃、左手に巻子(神名帳?)を持つ躍動感あふれる等身大の木像である。
毘沙門天は仏法守護の四天王の一つで、多聞天とも称する。
良忍上人は永久5年(1117)、阿弥陀仏から、人々が口に念仏を称えることにより、その念仏が相互に融け合い、現世に智慧輝き幸あふれる仏国土が現出するという融通念仏の教えを授与されてのち、洛北鞍馬寺の多聞天王の冥助によって、宮中をはじめ広く諸国にこの念仏を勧めて歩かれた。
また鞍馬寺の多聞天王は、梵天、帝釈、四天王、天神地祇、日本国内の八百万神にも融通念仏を勧めて、日課念仏百遍の誓約をなさしめ、「神名帳」を良忍上人に授けられた。ゆえに本宗では特に語法神として尊重する。
また阿弥陀如来像、地蔵菩薩半跏像を安置し、両脇壇には十六羅漢、閻魔十王像を合祀している。


八大龍王


鐘楼

正門霊明殿
正門、回廊、奉安所、修法堂から成る。 創建は保元元年(1156)、第3世明應上人のときと伝える。
良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の零牌と御真影を祀るために建てられた。
その後、寛永年中(1624~1643)。第38世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造の社殿を再建した。それ以後ここを「権現さま」「お宮」と称した。
家康公は大坂冬の陣(慶長19年 1614)、夏の陣(元和元年 1615)において、第36世道和上人に帰依し、治国の要を教わり、国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。
さらに両度の戦役で被災した大念仏寺を、天海僧正立ち合いのもと、青銅五百貫文を弁済し、庫裡を再建し、御回在念仏勧進の許可を与えるなど融通念仏の弘通に貢献した。
今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年頃火災で焼失し、その後、北花田、澤池正信氏と柄谷善弘氏の寄進により昭和5年に旧形のまま建て替えられた。
平成20年、大修理を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は融通念仏勧進帳の序文(重文)をしたため、広く念仏を弘められた方である。


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