安藤次右衛門尉正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏の陣には御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和元年(1615)5月7日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本多康則両軍に、敵陣へ肉薄するようとの命令を伝えた。
そのとき、数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い豊臣方の首級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて、傷の療養に努めていたが、再起不能を悟り、19日自刃した。 享年51、浄徳院釈了栄とおくり名された。 五輪の墓塔は世子正珍が、平野郷を囲む環濠の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした。 元禄14年(1701)に曽孫定房が寄進した盥盤は背面に正次の伝記体を刻した、他に例をみない珍しいものである。 |
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